~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
二条御所 Prt-01
義昭と信長の決定的な対立は、洛中の人々を恐怖のどん底に突き落としていた。
「都を焼き尽くす」といった信長の威嚇が、様々な噂となって巷に広まっていたためである。
信長が、柴田勝家・明智光秀・丹羽秀長らに命じて、石山を、さらに今堅田を攻め落させ、京の入口を占領したのは、二月の末であった。
この頃、本願寺顕如は朝倉義景へ出兵を催促するとともに、京まであと一歩と迫りながら足の鈍った武田軍の進発を促せていた。
が、その当の高田信玄が、重い病に倒れ伏していようなどとは、まだ誰も知る由もない。
義昭も宿敵でさえあった松永久秀と三好義継をゆるして、彼らと同盟するまでにいたっていた。なりふりかまわぬといえば言葉は悪いが、義昭の腹を決めた信長への決戦に対する意気込みのあらわれでもあった。
信玄の病ということを別にすれば、ここに信長は背後に迫りくる強敵武田軍を控え、前面に義昭を中心として結集した本願寺・三好・松永の勢力を受けて窮地に立った恰好となる。さらに義昭側は「君臣の義」を喧伝し、「君に」すなわち己に背く信長を鋭く非難した。
これに対し信長側は「天意すでに義昭を離れている」として対抗したが、うったえるには義昭側に歩があった。
腹の中では煮えくり返る信長も、信玄だけでも手に余る今、急いで義昭と真正面から戦う不利はさけようとし、細川藤孝を通して、実子を人質に出そうとまでいい、和解の意志のあることをにおわせて来た。
が、勝算ありとみている義昭側は、断固として態度を硬化させ、もはや人質なども無用であり、決戦あるのみとして藤孝の奔走を黙殺した。
義昭は聖護院しょうごいん道澄どうちょうを通じ、小早川隆景などにも出兵を催促させ、いよいよ来たるべき信長との一戦に力みかえっている。
この義昭の計算が、根底から大きく狂いだそうなどとは誰も思ってもみぬもとであった。
三月に入っても、武田がまったく動き出そうとはしなかったためである。
慌てたのは義昭ばかりではない。三好、松永、本願寺よて、武田をあてにしてこその信長への決起であった。
理由はどうあれ、武田の動く気配がまったくないことを確信した信長が、この好機を見逃すはずがなかった。
三月の末、自ら軍勢を率いて岐阜を発ち、京へ向って来た。
逢坂おうさか山に、この信長を迎えて細川藤孝がいた。馬を降りるや信長はめったに見せぬ笑顔を、この藤孝にむけた。将軍側近中、随一の切れ者とされる藤孝の出迎えは、信長にとって先の吉兆を予感させる嬉しいものではあった。
「もはや室町幕府もおわりぞ」
信長は、自信のほどを見せつける言葉を藤孝に向って吐き、
「そこもとも気苦労なことじゃ。世の中、なるようにしかならぬ」
と、なおうれい顔の藤孝に、そうつづいて言葉をかけ、藤孝の複雑な今の気持に理解を示した。
あらたに忠誠を誓って来た荒木村重に腰の物を、そして藤孝には名物の脇差を与えた信長は、すでに天下人たる貫録を持っていた。
ここに細川藤孝は、平伏してこれを受取った時点で、はっきりと義昭を見限り信長に臣従する立場となっていた。
信長がこの時率いた兵力は、およそ一万余である。
義昭は二条城に数千の兵とともにもり、堀の橋をすべてひきあげ織田勢に備えるとともに、三好らの援軍を待とうとした。しかし、武田はさておき、三好、松永、本願寺までもが、ここにいたってどうしたことかピタリと動きを止めていた。いわば義昭一人が、信長軍の矢面に立っていた。
孤立した義昭ではあったが、城内には丹波の内藤氏千余の鉄砲衆がいる。うかつなことでは織田勢とても、ただちにこの城に攻めかかれはしまいと、義昭は意地でも信長と対決する姿勢を崩さなかった。なかば焼けくそ気味ではあったが、先手を打ったのは義昭側である。
信長の京都奉行村井貞勝の屋敷を包囲し、貞勝を敗走させた。
城内の士気はこれで多少はあがることとなった。
「信長め、攻めて来るなら攻めて来よ」
と、桐の紋を染め抜いた陣羽織と甲冑に身をかためて義昭は勇み立った。
余裕を持つ信長は即座に兵を動かさず、この時どう室町幕府を滅ぼすかということを考えていた。
都を日の海にすれば、当然、汚名は自分に降りかかって来る。焼くなら焼くで、すべての原因が義昭の側にあることを見せつけななければならなかった。
信長は最後まで和を求める態度を取り続けた。義昭が許可するならば、自分は頭を丸め、武器を持たずに謁見しようとまで申し入れる。当然、義昭がこれを蹴ってくることを見越した上でのことであった。
2023/05/02
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