~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
二条御所 Prt-02
四月の二日。信長は柴田勝家を総大将として、明智光秀、細川藤孝、荒木村重、佐久間信盛などに、下賀茂から嵯峨あたりに火をつけることを命じた。脅しと挑発である。義昭に援軍はない。武田の動かぬことが義昭のすべての策謀を狂わせていた。
「制礼銭」と称し、信長のもとに焼かれたくない寺社や町衆から多額の銭が納められて来た。しかいs、二条御所近くの上京方面に対して「態度が不遜なり」として、この礼銭を信長は突き返させている。その上京を三日夜から四日にかけて焼き払った。夜空を焦がして燃える炎をみつめた義昭は、急速に闘志を萎えさせてしまったいた。
信長は御所の周囲に四つの砦を築かせ、つづいて御所に通ずるすべての道路を封鎖し、糧道を絶った。
「卑怯なり、信長」
いっきに攻めて来るものと思っていた義昭は、うろたえを隠せなかった。これでは千挺もの鉄砲も働き場が無い。猛煙をあげて燃え尽きた焦土の中に、二条御所だけが廃墟のように孤立してしまった。
当初は「信長と差し違えてでも戦い抜く」と、勇ましい限りの義昭ではあったが、いざ、信長の武力を前にして、二条城ごとき平城が何ほどの役に立たないものであるかを痛感した。
「何ぞ、よき手はないのか」
義昭は一色藤長、三淵藤英b、上野秀征など側近たちに当たり散らすが、いずれも本格的な合戦には素人ばかりといってよい。
二条御所を大きく包囲した織田勢からは、ときどき威嚇のようにして鯨波が轟く。そのたびに義昭の顔面は引きつっていた。すでにして、篭城兵もあらかたは戦意を喪失してしまっている。鯨波は夜に入って一段と大きくなり、その声に女たちが怯えおののき、泣き出す者までいた。焼き殺されるか、犯された後惨殺されるかが、女たちの敗戦における運命といってよかった。
「講和じゃ。いまいましいけれど、とりあえず信長めとは和するほかはない」
一部屋に身を寄せ合う女房たちを目の前にして、ついに義昭はそう叫び、藤長を呼びつけて使者には誰がよいかを尋ねていた。
その女房たちの中で、ふらふらっと義昭の前に立ち上がった女がいた。小少将である。大きな張りのある瞳で義昭を見詰めていた。しかし、閨にあるときのような媚びはまったくなく、恐怖に顔は蒼白となっていた。
「何、そちが」
小少将の口から洩れた言葉を聞いた時、義昭はしばし唖然とした。講和の使いには自分を行かせてくれと言うのである。女房たちの中にあって、一番怯えきっていたのが小少将本人に他ならない。その小少将が滝の陣へ使いに立たせてくれという。義昭は小少将の突然の言動に驚いた。と、同時に女の身では危険であると、なだめるように何度も義昭は小少将にいいきかせた。が、小少将は身を呈しても使者の役目を果しまするときかない。
その言葉に感激した義昭は、嬉しさとともについに折れざるを得なかった。
「女ならば、信長もすげのうは扱うまい」
そう考えて義昭は、一色藤長に命じて、ただちに講和の親書を小少将に託したのはその夜のうちであった。
侍女二人を従えて、小少将が御所を出るのを見送った義昭ではあったが、やはり、なんとなく落ち着かない。
「大丈夫であろうかの」
などと、一色藤長に情けない顔を向けたが、藤長とて、どう返事を返してよいやらわかるはずもなかった。
二条御所より、信長の陣に至るまで、すでに一戸の家もなく取り壊され、天神の森、平野の森が鬱蒼と繁るばかりである。道中、不逞の輩が、小少将たちを襲ってこぬともかぎらない。そう思うと、にわかに義昭の脳裏に、下賤な者たちによって無惨に犯されている女たちの白い肢体が思い描かれ、
「なぜ、警護の者をもっと付けてやらなかった」
と、一色藤長に当たりちらしたりもした。
その日一日、待てども信長からの返事はなく、小少将も帰っては来なかった。義昭の落胆はさらに一層ひどいものになっている。
義昭の不安をよそに、小少将は信長の陣に向いはしたが、途中から逃げるように戦場から姿を消してしまっていたのである。
この間の事情をまだ知るよしもない義昭は、小少将の閨のしぐさのあれこれなど思い出しては、なおその身を案じていた。
2023/05/02
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