~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
落 城 Prt-01
武田信玄が信濃国しなののくに駒場こまばの地で死んだのは、四月十二日のことである。しかし、このことは、まだ信長も義昭も知るところではなかった。信長は武田を挟撃しようと上杉謙信にもちかけ、義昭は義昭で織田勢がいなくなった京で再び信長との対決に今度こそと闘志を燃やし、二条御所の修理をはじめだしていた。しかし、しぐに義昭は、二条御所が篭城に適さないことを感じだし、近臣の槙木嶋まきしま昭光あきみつの勧めもあって、山城国槙島の地に城砦を築きはじめた。
槙島は南北に宇治川の支流が流れ、巨椋おぐら池にも通じ、京の南方防禦の拠点である。古くは承久の変に官軍側が軍を置き、近きは大内義興よしおきも山城の守護に任じられた時には守備兵を配したほどの地であった。
五月に入って義昭は、まだその死を知らぬ信玄に、そして朝倉義景、本願寺顕如に対して内書を発し、毛利輝元には兵糧米を請求した。
二条城を三淵藤英らに守らせ、自らが一色藤長とともに三好三人衆の岩成友通の兵をも加えて、三千七百余で槙島城砦に立て篭もったのは、七月三日からである。しかしすでにこのことあるを充分予想していた信長は、佐和山の小松原で百挺櫓ちょうろの快速船数十艘の建造を丹羽長秀に命じて、琵琶湖を船で移動するという京との距離の短縮化を考え出していた。
義昭挙兵を耳にした六日、信長は完成となったこの快速船を利用して、ただちに折からの京風をついて湖水を一直線に渡りきり、同日夜、坂本に到着した。翌七日には早くも京に入って二条妙覚寺に陣を置くや、その日から二条城を攻めたててきた。
あまりも素早い信長の出現に、驚く暇もなく二条城に立て篭もった義昭側の兵たちは、なす術もなく降伏した。一人信長に屈するを潔しとしない三淵藤英ではあったが、切腹することも間に合わぬままに捕らえられ、細川藤孝の義兄ということもあって一命だけは助けられたが幽閉の身とはなった。
“信玄死す”の情報は、ようやく不確かなものとしてではあったが、信長側にも義昭側にも知られるところとなりだしていた。武田勢が領国に向って兵を返していったことが、なによりの証拠と考えられていた。
この吉報に力を得た信長は、余裕をもって義昭に対することが出来、川下の五ヶ庄から宇治川を渡り、十八日には槙島城砦に攻めかかった。
信玄の死は本願寺や松永に大きな動揺を与え、反信長勢力はにわかに鳴りを鎮める結果となっている。
ここに義昭のもくろみは完全に外れたことになり、信長対手に戦う不利を痛感した義昭は、二条城が落ちた時点で、ふたたび朝廷に働きかけ和議の綸旨を賜ろうとしたが、今度とおい今度は朝廷も動かず、義昭の甘い考えがみごとに粉砕されたまま、織田勢と対決に向わざるを得なくなったうた。
両軍による鉄砲の応酬のあと、城砦側から五百ほど打って出るには出たが、たちまち織田勢に斬りたてられ総崩れとなって城内に逃げ返ったのを潮に、織田側の総攻撃が開始していた。
桐の陣羽織をつけ、望楼に登って眼下の雲霞の如き織田勢を目にした義昭は、百雷の落ちるかのごとき轟音と鬨の声に血の気をなくし、あたふたと望楼の上から降りていた。
義昭側の兵には、城を枕にという者はほとんど居ないと言ってよい。勝敗が歴然としてきたあたりで、兵らは完全に戦意を喪失し、逃亡者が続出した。それが落城をよりあっけなくしてきてもいる。ただ一人、岩成友通とその一党だけが、奮戦していた。彼ら三好党にとって、信長に敗戦することは確実な死を意味するものであった。
寄せ手はすでに城壁にとりつきはじめ、義昭側の鉄砲隊は役に立たなくなっていた。
「防げ、防げ」
と義昭は床几に着座し、声だけはなお元気なところを見せはしたが、甲冑の中は震え切っていた。
2023/05/03
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