~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
流 浪 Prt-01
とにかく義昭一行は、本願寺顕如の斡旋によって、三好義継の河内若江城に入ることが出来た。道中、着のみ着のままでの一行は、人々から貧乏公方と嘲笑される情けない姿であった。
京の治安を回復した信長は、槙島城を細川昭元昭元あきもとに守らせ、ここに天下布武ふぶを名実ともに示すが如く、朝廷に働きかけて義昭によって邪魔されていた元号の変更を、「元亀」からついに念願の「天正」に改めさせていた。
意気あがる信長は、つづいて、もはや残敵ともいえる存在となった浅井の息の根を止めるべく、近江へ出陣する。
織田軍来襲に、浅井長政は朝倉へ援軍を要請した。
これをうけて朝倉義景は、同族筆頭ともいえる朝倉景鏡に出陣を命じた。が、景鏡は疲労を理由に命令を拒否し、義景は自ら軍勢を率いて、一乗谷を出発しなければならなかった。朝倉自体も、もはや内部から大きく崩壊に向かっていたといえる。
河内若江城で義昭は、急速に失意から回復していた。
その粘り腰と闘志は、藤長でも驚くほどの執拗さがあり、尊敬にすら値した。
弱体化した浅井、朝倉には頼るべくもなく、さりとていつまでも江若城などという小城にとどまっていても仕方がないと考える義仲は、七月二十四日、毛利、小早川、吉川に援助を要請する筆をとった。
毛利はかつて義昭の兄義輝と親交をもっていた。わずかな縁にでもすがりつき、これをさらにあつかましくいも動かそうとする義昭の意志は、まだまだ室町幕府の再興を捨て去ったものではないことを如実に示していた。
返事の来ない毛利に失望を見せるどころか義昭は、急き立てるかのようにして、八月に入ってすぐに使者を小早川隆景のもとに派遣した。すでに浅井、朝倉は信長と戦闘の真っ最中であり、本願寺、三好義継、根来寺とは話がついている、ここで毛利、小早川、吉川が揃って兵を挙げてくれるならば、信長敗退は確実だといわしめた。
が、故元就の意志を固くまもりつづけ、天下への野望を抱かず、ひたすら慎重な態度の毛利および両川(小早川・吉川)は、義昭の挙兵催促にただただとまどいをみせるばかりであった。
浅井、朝倉に昔日の勢いは全くない。となれば、日の出の勢いにのる織田とまともにぶつかりあうことは大きな賭けをするに等しいと小早川隆景は考えていた。さりとて、義昭の依頼を頭から拒否することも、これまでの幕府との関係上出来かね、当たらずさわらずといった曖昧な態度を毛利側は取りつづけようとした。
義昭の裏面の策謀をよそに、信長は浅井攻撃に本腰を入れ、長政を小谷城に包囲するとともに、援軍として出て来た朝倉義景の本陣にも攻めかかる勢いを見せた。義景は織田の猛攻に恐れをなし、戦わずして本陣を引払い、軍を退却させたが、それが命取りとなってしまった。
織田勢は好機とばかりに追撃を開始した。すでに浅井を完全に小谷城に封じ込め、以前のように背後を遮断される恐れのない織田勢は、しゃにむに朝倉勢を追った。
なんとか越前国境、刀禰とね坂までは軍を返すことが出来朝倉も、ここで追いつかれて総崩れとなって再び潰走し、乱戦の中で朝倉に身を寄せていた 斎藤龍興さいとうたつおきも戦死し、義景自身がわずかな供まわりだけで本拠一乗谷に逃れ帰って来たのは、八月十五日のことであった。
その一乗谷にも織田勢が来襲して来るのは、時間の問題と言えた。
万事休した義景はついに覚悟を決め自刃しようとしたが、側近にとどめられ、」かろうじて景鏡のいる大野の地へ落ちのびるが、まさか景鏡に裏切られ四十一才を最後として果てた。
── 七転八倒、四十年・・・ ──という義景の辞世は、最後に己をみつめたにしては悲愴であった。
一乗谷に侵入した織田勢は、建物という建物に火を放ち、東西十八町、南北百八町の谷底平地は、三日三晩にわたって燃え続け、名門朝倉は跡形あとかたもなく消滅した。
あっけないほどに朝倉を滅亡させた信長は、今度は余裕をもって反転し、包囲した浅井の小谷城に攻撃を集中した。
2023/05/04
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