~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
流 浪 Prt-02
この日までに信長は、上杉謙信に対して義昭を追放したことと、朝倉を崩壊させた始末を報告している。
謙信にだけはまだまだ気を使い、彼の神経を逆撫ですることを極力さけようとしていた。謙信の軍事力をまだこの時点でもひたすら恐れている信長であることがよくわかる。
今は頼みの朝倉もなく、びっしりと織田勢に包囲された浅井久政、長政父子は、ついに落城を覚悟した。
信長は形だけにはしろ、妹の婿である長政に降伏を勧めている。しかし、信長の性格を知り抜いている長政はきっぱりと拒絶し、妻と娘たちを信長のもとに送り返した後、華々はなばなしく城を出て戦い、やがて力尽きて城内で自刃した。
長政、二十九才の最後であった。
この頃から羽柴姓を名乗るようになっていた秀吉は、先に坂本城を預けられ、一躍織田軍団で城持大名の名をなした明智光秀につづいて、小谷城主として十八万石を領し筑前守ちくぜんのかみ受領名を許される破格の出世を遂げるにいたった。
武田信玄の死は、信長を大きく飛躍させるとともに、その同盟者徳川家康にも大いなる幸運を与える結果となっていた。家康は信玄の遺領じゅりょうを継いだ勝頼とは、再三にわたって干戈を交えるが、ついにこの九月、長篠ながしのを落すことに成功し、東海に確固たる勢力を持つまでになっていた。
これらのことを義昭は、若江に城で耳にし、幕府再興の願いを放棄するどころか、いよいよ頼るべきは毛利だけとの思いを募らせ、毛利にしがみついてもとの信念をさらに強めていった。
義昭の依頼を受けていた毛利は、いつまでもそのままに打ち捨てておくことも出来ず、若江の城に使者を送ってともかく義昭を慰問した。十月二日、義昭はこれに対して謝意を表した。しかし、義昭の欲しいのは慰問ではなく、毛利の決起である。
煮え切らぬ毛利に、
「それでは、余が毛利に身を寄せるまでじゃ」
と、一色藤長を通じて、動座を毛利にほにめかさせた。
これには毛利は、慌てざるを得ない。
義昭が来れば、最終的には信長と戦わなければならないはめになって来る。そこまでの賭けに、今のところ毛利は踏み切る意志はなかった。
義昭動座は迷惑至極とはいえ、あからさまにそう言うことも言えず、なんとか義昭が京に留まっていてくれぬものかと方策を模索した。
毛利の思惑をよそに、義昭自身は己の敷いた信長打倒の路線に向かって、ひたすら活動を開始した。
本願寺顕如に三好義継と畠山昭高との和約を計らせ、顕如に忠義を尽くすようにと文を送った。
十月八日には上杉謙信に、槙島城退城とその後のことを報じて援助を依頼していた。

── 安国寺恵瓊えけい ── 若狭武田の血を引くが、理由あって幼きより僧籍に入っている。毛利とは古くより繋がりを持つ京の東福寺住持じゅうじ恵心えしんに師事し、師と共にひたすら毛利のために活動したことで元就、その子隆元たかもとに深く信頼されてきた男である。
恵心引退後、この男の存在は毛利の中でさらに大きくなり、安芸国安国寺住持となった恵瓊の発言は毛利そのものを動かすまでになっていた。
その恵瓊が在京中よりすでに面識のあった羽柴秀吉に、毛利の意向を伝えた。
毛利の方針は、信長と義昭の和約をはかって、織田と毛利の間にことなきを得ようとするものであった。
織田としても、東国に武田、上杉を控えさせ、大坂には本願寺、松永が隙あらばと信長の出方を伺っている状態の中、あえて毛利との正面衝突を望んではいまいと、恵瓊はにらんでいた。
恵瓊は情勢を分析することと、人物を見る眼にには人一倍すぐれた能力を持っていたようで、そのことが毛利の中で絶大な信頼を得ていることにも通じていた。
はたして秀吉からは、交渉の用意が織田にはあると伝えて来た。
恵瓊は上洛するに当たって、義昭が再び京に帰れるよう信長の了解を貰ってほしいと依頼した。かえして秀吉から信長了承の返事があった。
2023/05/05
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