~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
冬の風 Prt-02
小男の秀吉ではあるが、声だけは人の倍ほどもでかい。
そのひょうげた笑い声が、気詰りな空気を幾分やわらげていた。
「日乗殿の言葉が過ぎたるがために、上様のご機嫌を損じたようではござりますれど、本意はそうではございませぬ」
秀吉は一度深々と義昭に向って平伏した後、人なつっこい笑顔をうかべたままで言葉を足した。
「あけすけに申さば、上様にはこの後都で安楽に暮していただくことこそが、天下安泰のためには一番と、毛利も思ったればのこの会見でござりまする。ご不満でもござろうが、ここは天下のためにもご承知くだされますことを、この秀吉も伏して御願い奉りまする」
毛利も今一番困るのは、義昭に下向されることであった。恵瓊も義昭をなだめるために言葉を尽くし、
「さきほども申し上げましたるがごとく、将軍家が都に身を置かれてこその幕府でござりまする」
と、「天下のため」にを強調した。
恵瓊と秀吉の言葉に、やっと義昭も苦言を直し、
「うむ、天下のためにとあらばこそ、余もこの会見に臨みおるところぞ。しかし、余が信長の望み通り都の戻るのであれば、条件がある」
「条件?」
予想外の言葉をうけて、義昭を前にした三人はそう叫ぶや、思わずそれぞれ身を乗り出す形となった。
「条件とは」
義昭は恵瓊から秀吉、そして日乗にゆっくりと視線を移して後、おもむろに切り出した。
「人質じゃ。信長が余に人質を出すならば、都に帰ってやらぬでもない」
一瞬三人は、聞いた言葉の意味が解しかねるように、ポカンと口をあけ、互いの顔を見つめ合ったが、やがて秀吉と日乗の顔がこわばりだし、恵瓊は苦渋をうかべる表情となった。
「人質じゃ」
義昭はもう一度念を押すかの如く、膝を叩いて言い募った。
「御所様、なにとぞ、今のお立場を、お考えいただきまするように」
ゆっくりと怒りを抑えつけて話し出す秀吉の言葉だけは、まだなんとか下手に出ていた。
しかし、義昭はゆずる気配は全くない。
「出来る事と出来ぬことがあり申すぞ」
日乗は額の血管を浮き上がらせて、はや怒気を含んだ声を発していた。
恵瓊はなんとかとりなそうとするが、なおも譲らぬ義昭に、取りつく島はなかった。その態度に、ついに秀吉の怒りが爆発した。
帰洛きらくにあたっては、無条件でござる」
さすがにひとかどの武将と言われるだけあって、笑顔を消した秀吉の眼光には鋭いものが宿っていた。
「条件じゃ」
と、しかし義昭は人質の件をさらに口に乗せた。義昭にとっては、この意地を貫き通すことこそが、己に残された将軍としての誇りでさえある思っていた。
「それほどまでに申されるならば、もはや都に戻られなくて結構でござる。これより、どこへなと行かれるがよろしかろうて」
捨てゼリフを残した秀吉は、座を蹴り、カンカンにになって翌日大坂に退去した。
それでも恵瓊と日乗に意を含め、さらにもう一度義昭説得をうながしていたことは、秀吉の度量の深さと信長にはない優しさのあらわれでもあったろうか。
もう一日堺に留まり、無条件帰洛をすすめる恵瓊と日乗の努力は、しかし結局徒労となって会見は終了した。
「ならば」
と、義昭は強気を捨てず、恵瓊一人を召して当初のもくろみ通り、毛利下向をほのめかしたが、これにはさすがの恵瓊も目をむいた。会見がこじれたままで、義昭の身柄を預かることは、毛利と織田との全面戦争になりかねない、毛利はいま吉川元春も小早川隆景も尼子残党の蜂起で手を焼き、出陣を繰り返している。背後の大友の存在を考えれば、とてものことに織田とことを構える力の余裕などはなかった。
そういった毛利の苦衷と立場を訴えることで、ひたすら恵瓊は義昭下向を断わりつづけた。
2023/05/07
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