~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
冬の風 Prt-03
恵瓊にも去られた義昭は、それでもくじけなかった。
「あせらぬことぞ」
三十を半ば以上も過ぎて義昭は、そんな言葉を吐けるようにもなっていて、ガックリと肩を落とす一色藤長に、逆になだめる言葉をかけていた。
これまで義昭は酒に乱れることはなかったが、やはり心の底では帰洛出来なかったことに大きな衝撃をうけていて、その夜の藤長と春日の局を前にしての酒の過しようは、いつもの比ではなかった。
「憎き信長」
と、杯を傾けては、藤長に同意をうながす。
「無条件帰洛じゃと。余がそれほどの屈辱に同意すると思うてか。のう藤長」
義昭の心中がよくわかるだけに、藤長にもなぐさめようがなかった。酔いでそれが少しでも紛れるならと思いもするが、しかし、酔うほどに義昭の感情はたかぶりを増すようでもあった。立て続けに杯をあおくり、藤長にも共に飲むことを強要した。
「あまりにすごされても」
と、藤長が注意をし、
「お体にさわられまする」
と、春日の局も酌の手を控えようとしたが、
「だまれ、余はまだ酔ってはおらぬ」
ぐっと、空いた杯を突き出してそう言った。
「いまはできぬ。しかし、いつの日か信長めを滅ぼし、余は己の力で帰洛をして見せる。きっとぞ」
そう言った義昭の瞳は、藤長を睨みつけるかのように怪しく燃えていた。
「むろんでございまする。微力ながらこの藤長帰洛実現のために粉骨砕身つとめさせていただきまする」
その言葉にいくぶん機嫌を直した義昭は、
「そなたたち二人だけぞ。余が心より信頼できるのは」
酔いに身をよろめかせながら、義昭は春日の手を取り、つづいて、藤長の手を取るや、己の両手の中で重ね合わせてそうつぶやいた。
「もったいなき、お言葉」
藤長はそう答えはしたが、それよりも、春日の手に直接触れたことによって、激しい動揺を起し、酔いも手伝って頬を真っ赤に紅潮させていた。
「どうぢたことぞ、藤長。春日の胸乳に顔を埋めている時が、一番のやすらぎを今でも覚える。なんとのう母上様に抱かれているような気持にさせられるのじゃ」
ろれつもあやしくなってきた義昭は、そう言いつつ、藤長を前にして、はばかりもなく春日の体を抱き寄せた。
「この胸乳よ」
義昭はそう言いつつ、右手で春日の胸を衣の上から撫でさすった。
目のやり場に困った藤長が、
「もう夜も更けましたれば、そろそろお休みくだされたく」
と、座の切り上げを、しどろもどろに口にした。
「かまわぬ。それよりも、藤長は久しく女子を抱いてはおらぬのではないかの」
「はっ」
答弁に苦しむ藤長を、まるで楽しむがごとく、酔って赤く濁った瞳で見据え、
「どうじゃな。この春日の胸に、そちも一度顔を埋めてみたいとは思わぬか」
言った義昭よりも、聞いた藤長の方が、驚きあわてる言葉であった。
「めっそうもござりませぬ」
「余が許す」
たじたじとなって座をさがろうとする藤長に、
「余の命ぞ。見よ」
義昭は、こばむ春日の衿に無理にねじ込むように手を差し入れると、白い乳房を掴み出してそう言った。
「御所様。お戯れがすぎまする」
悲愴な声で、藤長は叫んでいた。
しかし、握った乳房を強いて藤長に見せつけるようにしながら義昭は、
「弱腰ぞ。藤長」
睨みつけるようにしてそう言い、やがてポツリとつぶやくように言葉を吐いた。
「毛利は弱腰じゃ」

十一月九日、堺湊を義昭一行は、海路紀伊へ向うべく船出した。従う、一色藤長、上野秀政、槙木嶋昭光ら側近と春日の局を含め、ざずか二十余名。もはや、持ち物といっても何ほどのものもなかった。
泉州の海に吹く風は、すでに北西の寒気身に沁みる冬の風である。その風は、まさしく落ち行く義昭一行にとっては似つかわしいとも言えるような、寒々としたものであった。小さな舟に身を揺られながら、誰もが口を閉ざしたまま、離れ行く堺の浜の松並木を見つづけるばかりである。岸和田から貝塚を左に見て、和泉の国を過ぎ、紀の国在田川の南岸宮崎の浦から、義昭らは海沿いの道をたどり由良へと向っていた。
2023/05/09
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