~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
由良の日々 Prt-01
和歌山県日高郡由良町に鷲峰山しゅうほうざん興国寺こうこくじは、天正十三年の秀吉による紀州攻めで一度堂塔の大半を消滅させている。現在のものは、その後、紀州藩主となった朝野幸長が慶長六年に再興したものであり、禅宗法燈派はっとうはの本山である。
由良港の村はずれの狭い田畑の田舎道に、今はまるで朽ち枯れたようにして立つ一の門がある。その門を、くぐり抜け、鬱蒼と繁る老杉に囲まれたやや急な参道を登りつめると、やがて眼前に鷲峰山麓の懐に抱かれるようにして建立する堂塔が姿を見せる。
もともとこの寺は、不遇に倒れた鎌倉幕府三代将軍実朝さねともの菩提を弔うために、側近であった葛山五郎かずらやまごろう景倫かげともが名を願性がんしょうとあらため僧となって建立し、後に法燈国師ほっとうこくしに寄進したものと伝えられる。当時は四方寺と称したようで、興国寺の寺号は、その後、後村上天皇から贈られたものであるという。普化ふけ尺八の本寺、遠く中国径山寺きんざんじからこうじを持ち帰ったことに由来する径山寺味噌、醤油の元祖寺としても名高く、寺内には実朝の墓や歌碑がある。
義昭がこの興国寺を頼ったのは、一つには源家ゆかりの寺としてでもあったろうが、それよりも、この地にあって紀州雑賀の鉄砲集団の力を利用しようとする下心の方が大きかったと言えようか。
寺はその昔、足利義満よしみつ義政よしまさらの寄進を受け、その後も室町幕府の厚い庇護を受けて来た。落魄の身とはいえ源氏の嫡流足利の血を引く義昭を迎えては、孤山禅師こざんぜんしも放ってはおけぬぐらいの計算は、当然、義昭の腹づもりに含まれていただろう。
しかし、孤山禅師が寺をあげて義昭一行を歓待したこととは別に、義昭の雑賀衆に対する思惑は大きくはずれていた。戦国期最強の鉄砲集団として恐れられて来た雑賀一党も、今は強大となった信長によってその存在さえも危うくなっている最中にあった。なにもわざわざ落ちぶれ果てた義昭の力になってまで、身の破滅に繋がるような行動に出て来る訳がなかった。
老杉の枝々を吹き抜けて来る木枯しの音に、義昭主従はさらなる身につまされる。しかし、この地を放れては今はどこに行く当てもあるわけがなかった。義昭は一色藤長に対して、これまでの苦労をねぎらう意味もあって褒状ほうじょうを与えた。奈良一乗院脱出後、藤長は一度感状を貰っている。あの時も今と同じようにさすらいの辺境であった。紙切れ一枚を間に挟んで、わずかな側近たちが控える中、主従は厳かにもその儀式を進行した。
十二月に入って義昭は、近くの豪族湯川直春ゆかわなおはるに協力を命じる筆をとった。
久方ぶりの内書である。それで思い出したかのように翌十二日、上杉謙信宛てに武田勝頼、北条氏政と急ぎ講和して、兵を率いて上洛せよとの内書を書いた。
受ける謙信の立場に立てば、よくも臆面もなく発したものだといえるほどの唐突かってない内書といえた。
この月、松永久秀が再度信長に降伏した。今度は根拠地大和多門山たもんざん城をも差し出しての、丸裸となっての降参であった。三好義継の滅亡を知り、そうでもしなければ信長の意にかなうことは出来ないと、老巧な久秀の計算であり賭けでもあった。信長は元来、裏切った相手を許さない。しかし、久秀に対してだけは例外ともいえるほどの寛容さを見せて、再びの降伏を受け入れていた。
力の余裕もある。しかしそれよりも、信長は毒あるこの男に、まだまだこの後の利用価値を認めていたといえる。
2023/05/10
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