~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
由良の日々 Part-05
武田勝頼が大軍を率い、遠州の高天神たかてんじん城を攻め始めていた。徳川家康は信長に救援を頼んだ。徳川軍だけではとてものことに武田騎馬軍団を相手に戦う力はなかった。信長は承知の返事はしたが、動かなかった。
動けば必ず伊勢長島の一向勢が、背後を脅かすことは歴然としていた。義昭の内書で両者の結束が取れていると見なければならない。信長は顕如がいる石山本願寺よりも、木曽・長良なら揖斐いびの大河が合流する湿地帯に本拠を持つ願証寺がんしょうじを中心とした一向勢を恐れていた。これら勢力に織田側は何度も手痛い敗北を繰り返し、多くの将兵を失っていた。
背後にそんな難敵を背負って、武田との賭けともいえるような決戦に信長としては持ち込みたくなかった。
自軍だけでは動けぬ家康は、高天神城からの叫びとも言える救援要請に地団駄を踏んでいた。
「高天神城は見捨てよ」
とは、さすがに信長も言いかねていた。
やっと重い腰をあげた。
信長には信長なりの考えが出来てからである。
家康には姉川の戦いなどでずいぶんと借りもあり、まったく無視するという言うわ訳にもいかなかった。
信長は、いわば背後に眼を向けたままでのろのろと軍を進めさせた。今切いまきりの渡しまで到着した時、高天神城落城を耳にした。
「落ちたとあれば、せんなきこと」
驚くふうもなく信長は、当然のようにその地よりそそくさと反転してしまった。一応、出動して来たことで、家康に対する義理は立てたつもりである。これで勝頼がさらに兵を西に進めて来るなば、家康という盾は死に物狂いで防戦するしかないだろう。
伊勢長島討伐である。
この地への大軍投入は数えて三度目であった。しかし、今回は作戦からしてが、根底的に違っていた。海も、陸も完全に包囲し、徹底的に全滅させずにはおかぬといった信長の恐ろしいまでの気魄が込められていた。
九鬼嘉隆/rb>くきよしたからが率いる船団が海上を封鎖するとともに、揖斐川をさかのぼり岩証寺を急襲した。
これまで織田側は湿地の戦いに慣れぬ小舟などをくり出しては、常に攻めあぐねてきた。今回の九鬼水軍の投入は、一揆勢に大きな打撃を与え、海上をも封鎖されたことで、糧道はまったく途絶した。石山で気が気でない顕如は、なんとか助ける手立てがないものかと模索したが、鉄壁とも言える信長の包囲網を突き破ることは出来なかった。攻防二ヶ月、ついに飢えと寠れで、一揆側は降伏の悲鳴をあげた。が、信長はこれを許さず、柵で包囲し四方より火を放った。真夏の炎天下で、火はまたたくうちに燃え広がり、長島を炎で覆い尽くした。焼き殺された男女の数、二万余とも言われる大殺戮であった。
伊勢長島の潰滅と信長の残虐さは、反信長勢力を震えあがらせ、勢い込んでいた義昭を消沈させた。
「信長は鬼か」
ののしり怒る義昭ではあったが、信長を倒せるどういう手立ても今はなかった。
やがて、天正二年も義昭に喜びをもたらす年ではなく過ぎ去っていた。
難敵を滅ぼした信長は、翌天正三年三月、石山めがけて攻撃を開始し、四月には高屋城を攻めてた。叶わぬと見た康長ら三好の残党は降伏した。
義昭の広げたあみが、また一つ破れ果てていた。
石山本願寺に攻めかかりはしたが、損害を与えただけで信長はさっさと兵をかえしている。してみれば、信長のこの行動は一種の牽制であり、しでにこの時目は武田に向けられていたのである
2023/05/12
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