~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
毛利起つ Part-02
── 今度こたび毛利海陸かいりく出勢しゅせいにつきて ──
顕如が書きだした紀州門徒への指令である。
まさかの毛利が動き出すという情報を得た信長は、毛利と本願寺の往来を断つ必要を感じて、淡路岩屋の地侍たちをまず己の手の内に取り込もうとした。これに対し顕如は、紀州門徒に岩屋いわやの警固を命じ、出勢してくる毛利宗とはよく同調するようにと念を押していた。
仏法の一大事という顕如の檄に、紀州雑賀の鉄砲集団を中心とした門徒たちが、夜を日についでぞくぞくと石山に参着しだしていた。
この慌ただしい本願寺の動きに対して、信長は荒木村重「、細川藤孝、明智光秀、原田直政まさなお、筒井順慶じゅんけいに出動を命じ、義昭が期待していた本願寺と織田側の戦端がついに切って落とされたのは、四月十三日夜の今宮口であった。本願寺側は海からの補給路である木津・楼岸の砦を強化し、織田側がこの補給路を断とうとして、まず木津を狙って今宮いまみや口で衝突したためであった。
荒木村重は尼崎から野田へ、光秀、藤孝は森口から杜河内もりかわちへ、そして、直政、順慶は天王寺口からそれぞれ本願寺側に攻撃を開始した。
安土から上洛した信長は、まだまだ気持の余裕を持っていた。妙覚寺みょうかくじを本陣とし、二条晴良の旧宅に己の京での居館の造営すら考えていた。
一方、今度という今度は寺の破滅にもつながりかねない本願寺としては必死であった。顕如の檄に応じた門徒衆は住吉社に火を放って逆に織田勢を襲撃し、三津寺みつでらに押し寄せた原田隊を数千挺の鉄砲で反撃して直政を戦死させた。原田隊は多くの死傷者を出して潰走した。
これに勢いを得た本願寺側は、さらに四天王寺に陣を置いて光秀、順慶隊を包囲し、堂塔を炎上させてさらなる気勢をあげた。
思わぬ事態の展開に驚いた信長は、明衣ゆかたびらのままで馬に飛び乗り、大坂めざして駈け出した。そのあとを、とるものもとりあえず百騎ばかりの近臣たちが馬に鞭をくれて後を追った。
河内若江で後続の兵をまとめた信長のもとには、光秀からの急を告げる報せがひきもきらずに届いていた。
信長は三千を三つに分け、一隊を佐久間信盛のぶもり。松永久秀らに、そしてもう一隊を滝川一益かずます、羽柴秀吉らに率いさせ、自らも残る兵を率いて四天王寺に迫ったのは五月七日の夜であった。

信長は柴田勝家にも出陣を命じたが、すでにこの時近江で六角残党も決起し、形勢は信長にとって容易な事ではなくなりつつあった。
義昭は鞆の地で喝采していた。己の一計がまんまと当たったことになったのである。
「あとは毛利じゃ。毛利が動けば上杉・武田・北条とて動かぬ筈はない」
信長の勢いを留めるこれが絶好期だと、義昭は己の蒔いた策の成功に自信を持ってうそぶいていた。
その毛利がついに信長との開戦に踏み切る決心をつけたのは、四天王寺に信長が兵を進めた日と同じ日のことである。
「つつしんで出陣命令に奉ずる覚悟」との、輝元の言葉が、安国寺恵瓊を通じて義昭に伝えられて来た。
恵瓊は、島津しまず龍造寺りゅうぞうじ河野こうのなどの西国大名、上杉・武田・北条などの東国大名に援助を請うについて、義昭の助力を求めていた。
「さすれば毛利は、国をあげて信長討伐に向いまする」
「おお、むろんじゃ。こたびは余も持てる力を出し切ってもとの覚悟でいることぞ。早速にも、それら大名たちに内書をつかわし、毛利との共同戦線に組み入るよう命ずることとする。いや、それにしても輝元殿の勇断、この義昭、満足この上もない」
恵瓊の手を握らんばかりの、義昭の喜びようであり、
「これで余も、鞆にまで動座して来た甲斐があったというものじゃ」
と、恵瓊ですら戸惑いを見せるほどの、うかれようを見せていた。
2023/05/15
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