~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
毛利起つ Part-03
毛利はもともとが、一揆契約による寄り合い所帯である。言い直せば、土着の国人領主たちの独立性が強く、織田のように兵農分離型の、信長の一声で即座に行動を起す軍団ではなかった。
義昭の命を奉じたことを、分国内の国侍に輝元が正式に通達したのは十三日のことであったが、輝元からこの命令を受けて、やっと、領国内があわただしく兵を招集し出動準備に取り掛かるというものであった。
信長の軍団を見続けて来た義昭の目からすれば、この毛利の緩慢さはまことにじれったいものがある。しかし、何にしても毛利は決断したことへの意味は、大きなものがあった。
恵瓊に言われるまでもなく、義昭は、さっそく京都の醍醐寺三宝院の義尭ぎきょうをして、上杉謙信に武田・北条との和約をすすめさせた。謙信は、本願寺との講和をまず了承してきた。
「輝虎が承知してくれれば、百人力というものぞ」
情勢は日を追って義昭のもくろみ通りになるようであった。
喜んだ義昭は即座に使者を越後に発し、上杉・毛利が共に共同した戦線をとり、信長を倒して足利幕府再興に日からを尽くせと命じていた。
義昭は武田勝頼にも書を送り、毛利と力を合わせて信長を撃てといい、謙信にはさらなる内書をしたためて、くどいほどに信長討伐を命じていた。
しかい、苦戦の信長ではあったが、四天王寺ではあに伝統ともいえる桶狭間の戦いをほうふつさせるかのような、迅速果敢な猛攻を本願寺側にあびせ、織田側は四天王寺内からも打って出て挟撃したために、形勢は逆転していた。
門徒勢は二千七百余の死者を残して石山に逃げ、これを追って織田側はじりじりと本拠石山に迫る展開となっていた。
石山は大坂湾に流入する木津川。淀川などの河口にあたり、当時この地は、大小の州が網の目のように橋で結ばれた天然の要害である。
難攻不落といわれる石山を目の前にして、さすがの信長も一挙に攻め寄せる愚をさとっていた。
天王寺に陣を置いた信長は、尼崎・吹田・茨木など大きく石山を包囲し、水路を押さえての兵糧攻めを考えた。
篭城の顕如に、この時点でまだ焦りの色はない。なんといっても、毛利の援護を確信していた。しかし、戦闘膠着状態の中で、織田の石山を挟んでの砦の構築が始まりだしたのを見て慌てた。期待の毛利がまだ来る様子もないことに不安を感じた顕如は、諸国門徒に来援を求める使者を送り、とくに、越中で上杉謙信と敵対しつづける一向勢に対しては、義昭の仲立ちによって成立した謙信との和を強調し、上杉上洛を阻害してはならぬと命じていた。
2023/05/16
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