~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
毛利起つ Part-04
義昭の鞆の御所に、俄かに近国はいうに及ばず遠方からも諸大名の使者たちが訪れだしていた。
反信長の立場で結集しつつある一大渦の中心を義昭と知ると、これら大名たちは儀礼だけにもせよ、とりあえず誼を通じておこうとし、歓心を買っておこうともしたためである。
ために鞆の地は空気までもが活気を帯び、義昭は人の出入りで手狭となった小松寺から恵瓊の世話で、いったんは湊近くの土地の土豪である渡辺守兼の館を借り受けたが、ふたたび、鞆の西約一里ほどの常国寺をこの後の御所と定めて動座した。
動座の当日は、渡辺守兼が、輿を用意して義昭の前にかしこまっていた・。
「大儀である」
義昭は地侍の頭領に一瞥を投げかけただけで、そっけなくすぐに輿に身を入れた。しかし、人の良さが顔にそのまま現れ出ているかのような守兼は、白髪の頭を深々と下げて将軍義昭を迎えたことに涙を浮かべるほどの感激を見せていた。
気を利かせたつもりの毛利が、若い侍女二人を御所に送り付けて来たのも、この頃である。いづれも義昭好みの美人であった。当初、春日の局に遠慮を見せていた義昭も、このことで何のわだかまわりも見せそうにない春日の局の態度に安心したのか、徐々に大胆となり、いつか春日の部屋を訪れることは稀ともなっていた。
日頃と変わりはない日々の春日の局ではあったが、一瞬の表情にあらわれる憂いの色を、藤長は気づいていた。
義昭と共にこの鞆の地にまで流浪して来たこれまでの苦労を思うにつけ、かまわれなくなった春日の局の寂しさが痛いほどに藤長には理解出来、義昭の態度に溜め息をつく日々であった。
その頃、義昭を奉じて動くことを決意した毛利が、船と食料のかき集めに必死となっている。
本願寺顕如からの、食糧補給の懇請に答えるためであった。包囲され続けている寺側は、六月ごろより食糧が尽きはじめ、決起を決めた毛利が先ず一番にやらなければならなかったのが、織田と対戦中のこの本願寺の窮状を救うということであった。
毛利水軍のただならぬ噂を耳にした信長は、淡路の岩屋の防衛を固め、海上を警戒させた。
しかし、岩屋はまたたくのうちにその後、毛利水軍によって占拠された。水軍力の対比では、織田側はとてものことに毛利に適うべくもなかったのである。
能島のしま来島くるしま因島いんのしまの水軍を称して、村上三島さんとう水軍という。毛利はこの村上水軍のはかに、小早川・川ノ内といった名だたる水軍衆をその傘下に持ち、戦国期きっての水軍保有国であった。
輸送船六百艘、これを護衛する兵船およそ三百艘が淡路の岩屋に集結し、おびただしい数の船印ふなじるしを風になびかせながら大坂に向かって船出したのは七月十二日であった。天下にその名も轟く村上武吉たけよしが指揮をとっていた。
大船団は和泉貝塚にいったん寄港、ここで雑賀船団と合流し、堺・住吉の沖をかすめて翌日には早くも木津川河口の沖合に姿を見せた。
毛利の水軍は大型船の呼称である安宅を持たない。関船などの中・小型船で敵をたくみに包囲し、火矢・炮烙ほうらくで殲滅するを得意とした。
対するに織田は、なんの作戦のないままに手近の水軍を木津川に結集させ、河口を封鎖しただけであった。兵糧の搬人だけを阻止すればよいと考えていた。なにも村上武吉とまともに戦う必要はなく、わざわざ鳥羽から九鬼水軍を呼び寄せるまでもないと珍しく信長はタカをくくっていた。信長自身が開戦に疎いということも一つの原因であり、油断を生んでいた。
戦端が開かれたのは十四日未明である。村上武吉の采配はきわだっていた。兵船三百余がまたたくうちに織田側の安宅数艘を包囲し、火矢を射、炮烙弾を投げ込んで炎上させ、うろたえる織田側船団に武吉は一挙に大船団を突入させた。
あまりにもあっけない幕切れと言えた。ギラつく陽光が海上に射しはしめた頃には、織田水軍の姿は河口から完全に消えてなくなっていた。毛利は織田水軍を打ち破り易々と兵糧を運ぶ入れることに成功したのである。
2023/05/17
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