~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-02
石山本願寺を落とすには、その主力ともいうべき雑賀と根来寺を叩かねばならぬとして、嫡男信忠を先陣に大軍を率いて信長が京を発っていた。
貝塚では願泉寺を拠点にした一揆衆がこの織田に抵抗を試みたが、あまりの大軍になうすべもなく寺も民家もことごとく焼き払われて逃亡した。信長は信達しんだつに陣し、いよいよ紀州攻めにはいろうとした。
予想を上回る織田側の速攻に、本願寺顕如からはしきりと毛利の出動をうながす使者が駆けつけていた。
この上方の切迫した情勢に対して毛利は、大幅に戦略を変更せざるを得ず、まず、宇喜多直家を播磨はりまへ先発させて信長を牽制させるとともに、小早川隆景をして、海路備中びっちゅう笠岡に着陣させた。しかし、吉川元春を留守隊として残し、輝元自身がようやく吉田を出発したのは、約束の三月十六日ギリギリのことであった。
義昭は毛利の出動を織田側の能登七尾城を囲んでいる上杉謙信に急使をもって報せ、すぐさま越前から近江に進出して信長の背後を衝けと催促した。
宇喜多は播磨を超え、水軍は室津むろつに集結して、毛利は織田側にひたひたと攻め寄せていった。この毛利勢の動きを知ると雑賀・根来を攻略中の信長ではあったが、あわてて雑賀衆らとは和を結び、軍勢を退却させて秀吉、光秀、村重らを急ぎ播磨に向わせて迫り来る毛利に備えようとした。
鞆で、義昭は、あきることなく絵図面を覗き込んでいる。当初予定であった義昭自身の出陣は、実現には至っていない。将軍親征ともなれば、それなりの体裁も整えねばならず費用もいる。意気込む義昭ではあったが、あまり毛利ばかりに無理を押しつけることもはなかりがあった。義昭は毛利の進撃と共に絵図面上で駒を進め、それでもひとり悦に入っていた。その駒の進み具合が順調でなくなって来たのは、鞆の空が終日雨雲に覆われ、もう間もなく梅雨を迎えようかという頃であった。
姫路を狙って英賀から上陸した毛利の水軍が、小寺官兵衛孝高よしたか(後の黒田官兵衛)の奇襲にあって思わぬ敗退をみたことと、義昭の期待していた謙信が、関東情勢の変化で急きょ越後に引き揚げ去ったことが雲行きをあやしくさせていた。
義昭は猶予ならぬ情勢の変化に、居ても立ってもおれなくなっていた。この期を外せばもう二度と再び信長を倒す好機はめぐって来ないだろうと痛感し、ついに「親征」を決意した。
2023/05/18
Next