~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-04
藤長出奔によって、一時、御所内は陰鬱な空気に包まれていた。
「天下が左右しょうとするこの時、藤長一人のことで気を滅入らせてどうするぞ」
義昭はあの夜以来、毛利が以前から気を利かして差し出していた女たちを溺愛し、春日に対してはまったく無視する態度をとっていた。そして、親征に水をさされた分を取り戻すかのように、松永久秀などにせっせと内書を書きはじめる毎日を送った。
上杉謙信出馬の報せは、そんな御所内の沈んだ空気をいっぺんに吹き払う朗報であった。
謙信は越中魚津に出陣し、大軍団を能登のとに向けて西進させていた。能登七尾城からの急を告げられた信長は、伊達輝宗に謙信の背後を衝く好機だと勧誘し、柴田勝家を総大将にして羽柴秀吉とともに加賀に向わせた。
信長にとっては、もっとも恐れている相手がいちばん都合の悪い時に動き出したということになる。
織田側はすでにして本願寺と毛利、そして丹波方面にも多くの兵を割いていた。家康に援軍を求めようにも、武田が気になる家康もおいそれとは動けるような状態ではなかった。
上杉軍の強さは、天下に鳴り響いている。しかし、これを恐れて七尾城を見捨てれば、能登は謙信によって平定され、つづいて加賀・越前も危うくなって来るのは必定であった。信長としては嫌でも賭けのような戦いに突入せざるを得ず、遊軍すべてをこの方面に投入する必要にせまられた。さらに信長にとって悪いことに、本願寺攻めを担当し、四天王寺に布陣していた松永久秀が、陣を払って大和信貴山の己の居城に駆け戻るや、突如、信長に反旗を翻して来た。
この男の裏切りには信長は慣れているとはいえ、怒りで額の血管を浮き上がらせた。即座に討伐したいところであったが、兵力に不足があった。
しかし、このまま放ってもおけず、噴き出る怒りを無理に飲込んで信長は、
「不満があるなら聞こう」
と、渋々ながら慰撫する使者を送りつけた。が、強気の久秀は、これをはねつけた。
今までから久秀は、腹の底から信長に仕える気持を持っていたわけでもなかった。信長が強大であるがために、やむなく屈服していたにすぎない。不満があるというならば、その信長の下でいること自体が不満でもあった。それに近頃では不満に不安というべきものが加わったいる。
信長は役に立たないとみれば、重臣でさえ弊履へいりのごとく捨て去る昨今であった。
「牛や馬ではあるまいし」
一度は天下をも伺おうとした久秀である、信長ごときに利用されるだけ利用し尽くされるを潔しとしない誇りを持っていた。
「天下は、生きてさえあれば、またのときにも来よう」
そう忍従しつづけた久秀は、そののち信玄にその夢をかけ一度は牙をむこうとした。が、夢は突然の信玄の死とともに泡沫のごとく消滅してしまった。這いつくばって信長に降伏した久秀は、その後、信長に許されることはなかったが、牙を懐深く隠しもっての降伏でもあった。
それが今、義昭の内書を受けて久秀は、ふたたび好機到来を確信した。
謙信が信長の敵となって動けば信長の天下などいっきに吹き飛んでしまうだろう。さらには、毛利、本願寺を敵に持つ織田は、もはや風前のともしびともいえる存在としか思いようがない。
上杉が越前から近江、京へと進み、毛利が軍を摂津から京に進める時が、信長の最後であると久秀は先を読み込んでいた。
2023/05/20
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