~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-06
謙信の上洛を、信じ切ったればこその挙兵であった。
このどたんばに来ての大誤算。信玄亡き後は謙信と言う二大英雄をあてにしての久秀の賭けは、ものの見事に二度までも大きく外れ、またしても孤立した。
久秀はしばらく口をあんぐりとあけるだけで、放心状態のままであった。
老獪ろうかいと言われて久しいこの男も、七十二あと二つという年であった。それでもかくしゃくとしたもので、一時の放心からようやく冷めると、思い決したように唇を強く噛みしめ、家臣一同を集めて言ってのけた。
「もはやこの歳となって、悪あがきをしはすまい。かくなるうえは信長めに一泡も二泡もふかせてくれようぞ」
逆に窮地を脱した信長は、越前方面から引き揚げて来た兵と、信忠を総大将にして、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶た二万の大軍をもって怨み重なる久秀の信貴山城を包囲させた。
眼下に群がる織田兵を見て、孤立無援の久秀は今度という今度は滅亡を覚悟せざるを得なかった。
平蜘蛛ひらぐもの釜という天下に名高い茶器を、久秀は持っていた。
戦えるだけ戦った久秀は、狂気のように笑いつづけ、眼下に群がる織田兵を睨みつけてのち一声叫んだ。
「城も釜も、信長ごとき渡さぬわに」
こっぱみじんに釜を打ち砕かせたその後で、自刃の刃を手に取った久秀は、用意の火薬に火をつけさせた。
奇しくもこの日が、かつて己が大仏殿を焼いたと同じ十月十日にあたっている。
久秀を滅亡させた信長は、すかさず光秀と藤孝に丹波攻略を再開させるとともに、羽柴秀吉には中国地方から毛利を押し返せという新たな命令を発していた。窮地からの一転しての反撃であった。
この素早く迷いのない行動こそが、信長の他の諸大名たちには見られない能力と言えた。
安土を出発した秀吉は、姫路の小寺官兵衛の全面的な協力を受けて、ほぼ播磨地方の平定に成功した。破竹の勢いに乗る秀吉は、さらに、宇喜多勢の戦線を撃破し、上月こうづき城を包囲して十二月には城中に突入し城を陥落させた。この城に秀吉は、尼子勝久、山中鹿之助らを毛利の宿敵だあった尼子残党を配置し、いよいよ直接前面に毛利をみつめてその年は暮れた。
たたみかけて来るような織田の進攻に、あわてる毛利は東上作戦をさらに大巾に変更し、山陽道一本にしぼって秀吉と対決する姿勢を打ち出さざるを得なくなっていた。
先ずは上月城の奪回である。
しかし、出動日を当初一月中頃と定め、にち、二十六日に延期し、さらに、その日すら延期した。
この間、鞆の常国寺で義昭は、身をもむようにしてじれまくっていた。
「なんたる緩慢、なんたる牛歩じゃ」
織田と比較し、毛利のあまりの行動の遅さに、ただただ呆れる以外なすすべもない。
松永久秀の滅亡を境にして、義昭の信長包囲網はいたるところにほころびが出来かけていた。
それを跳ね返す意味もあってか義昭は、多くの僧兵を有する高野山の金剛峯寺や大和多武峰(談山神社)に内書を送って僧兵を動かす画策をしたりした。
備後浄土寺の尊氏ら歴代足利将軍の御教書みきょうしょを一瞥した義昭は、その裏面に花押かおうを書いて幕府再興をあらたに誓ったりもする。
謙信が三月には上洛すると言って来たことは、義昭のいらいらを一気に吹き飛ばす朗報であった。
ぐずつく毛利を急き立てるためもあってか、あるいはやる己の気持に待ちきれなくなったためか、親征の先鋒として、上野秀政に阿波・淡路の兵をつけて早々と出発させ、堺の湊に向わせていた。
さらに朗報はつづいた。
安国寺恵瓊の工作が功を奏し、三木城の別所永治が丹波八上城の波多野秀治ひではると示し合わせて、信長に反旗を翻した。これによって、播磨の勢力分布図はふたたび一変した。
そして、義昭の待ちに待った毛利の出動が三月十二日に実現した。
2023/05/21
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