~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-07
宇喜多勢を先鋒として毛利側は、吉川元春、小早川隆景は三万の兵を率いて上月城に攻めかかり、輝元も備中松山城にまで進軍した。
義昭は槙木嶋昭光を派遣してその労をねぎらい、激励させた。
上杉勢の出陣は来たる三月十五日と決定していた。動けば織田は毛利との間に挟まれ、誰の目にもまず滅亡はまぬがれないものと思われた。が、その直前の十三日未刻(午後二時)上杉謙信が急死していた。死因は脳出血。──四十九年一睡夢・・・── という、かねて用意の辞世を残してのあっけない旅立ちであった。遺骸は甲冑を着けたままで、荘厳に葬られた。
謙信は戦いに勝つことを祈願するため、若い時より女色を断ち、ために、実子がいなかった。
後継者が定まっていなかったため、これをめぐって国内がにわかに騒ぎたち、上杉は上洛どころではなくなってしまった。
信長のもっとも恐れていた男の死は、義昭をぐったりとその場に座り込ませる衝撃を与え、信長をして狂気のような高笑いをさせていた。
「まこと、死んだか」
何度も信長は確認するかのように叫び、けたたましい笑い声を放っていた。
信長包囲網に思わぬ大きな破綻を生じはしただ、毛利としてはもはや後には退けず、さらなる進撃を続けざるを得なかった。
落胆した義昭も、気を取り直して毛利を督励した。
この方面に敵対する秀吉は、激しい毛利の進撃に戦況の不利を悟っていったん兵を引揚げさせた。ために、篭城の尼子残党は孤立し、上月城は陥落した。
しかし、この勢いに乗って播磨から織田勢を一掃し、本願寺、三木の別所らと力を合わせて摂津方面にまで一気に兵を進めようとする考えの隆景と、尼子を滅亡させた今、その領国の地盤を固めるためには、まず、但馬たじま国に兵を進めるべきだとする元春の意見が毛利の動きを二分することになっていた。
出雲・石見など山陰の諸豪族を率いる元春としては、常に頭に山陰を重視する考えを根底に持って行動して来ている。ためにこの時も頑として山陰道を重視すべきだとして譲らなかった。攻めるよりも守りを重視する考えは父親譲りの毛利の伝統的な考え方であり、もともと口の重い元春は、一度言い出したらめったなことではあとに退かない気質を持っている。
地盤を固めて一歩ずつという元春の考え方に対して、いま一丸となって信長を倒すことこそが、後々毛利にとって悔いを残さないことになるという恵瓊の担架を睨んでの見解は、逆に元春の態度をよりいっそう強化させただけに終わってしまった。美人の魂は潔しが第一とする元春は、弁舌をもっぱらとする外交や謀略というものを一段低く見ていて、恵瓊とも肌が合わなかったのも、そういった根本的な視点の違いを性格的に持っていたためであった。この点、父元就の謀略的性格の一面を元春はまったく継いではいなった。
義昭はその春元の求めに応じて薩摩の島津に大友を牽制せよと特使を派遣するするとともに、新たなる謀略の一手を考えだしていた。
荒木村重むらしげへの内書の送達である。
村重は織田側の有力武将ではあったが、家臣に本願寺の門徒となっている者を多く抱えていた。もともと村重が領する摂津という国は一向宗が深く浸透していた国であり、これは止むを得なった。それを承知で信長は石山攻めを何度となく村重に命じている。悪意ではないが、信長はこういった人の使い方を好んでいた。
これによって村重の兵らは己が信仰する総本山の石山めがけて弓・鉄砲を打ちかけなばならなくなっていた。
当然、村重としてはこういった状況に苦慮しているはずである。義昭は村重のこういった心の間隙を突こうとしたのである。
「本願寺に味方せよ」といった内書を一方的に、頻繁に送りつけていった。
2023/05/22
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