~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-08
一方信長は、豊後の大友宗麟に毛利の背後をおびやかすことを勧めるとともに、本願寺との対戦に備えて伊勢から九鬼水軍を大坂湾へ呼び寄せていた。
鉄板を張りめぐらした新式の九鬼の大船六艘を中心とする船団は、行く手を阻もうとしておびただしい小舟で襲いかかった雑賀水軍らを泉南の淡輪沖で蹴散らした後、悠々と堺浦に到着した。
この九鬼水軍の出現によって、毛利は大坂湾・紀伊水道から瀬戸内にかけての制海権を喪失したといえる。
海上を封鎖されたことで本願寺顕如は血の気をなくしていた。日一日と信長の包囲は厳しさを増し補給路は完全といえるほどに断たれてしまっていた。このままでは法燈も滅びかねずと顕如は、再三にわたって毛利に救援を促した。これがために意見が二分したことと、八十日という長期の陣で息がつづかなくなりいったん兵を領国に戻していた毛利は、かき集められるだけの兵糧を搔き集め、再度本願寺を救援するためにあわただしく船団をまとめかかる必要にせまられていた。
謙信の死を境にして、信長は一転して優位な位置に立っている。本願寺を包囲するとともに、秀吉に二万の軍勢を与えて播州の三木城を孤立させる力の余裕すら見せ出していた。これまでなら三木城を落とすのに「時間のかかる兵糧攻めなど手ぬるい」と秀吉を叱り飛ばすところだが、己自身も本願寺を包囲しただけで、あの伊勢長島でのように一気に焼き討ちにでようとはしなかた。安土に千五百人ほどの相撲取りを呼び寄せ、連日好きな相撲を見物し、十月に入っても宮中で相撲を興行した。
摂津有岡城の荒木村重の叛逆は、その信長を再び窮地に引きずり落とす突発事であった。
村重謀反の報せを、当初信長は虚説だろうとなかなか信じなかったという。敵を動揺させるために、そんな噂をバラまくことは、この時代一般的といってよく、もともと毛利はその調略をフルに発揮して元就が大国を築いて来た歴史があった。
しかし、敵の謀略であるとはじめは取り合わなかった信長も、義昭の内書が送られている事実を把握してからは、ついに裏切りを現実のものとして確信した。
「許せぬ」
信長は額に青筋立てて怒り狂った。
が、有岡は大坂に近く、村重の一党は尼崎・高槻・茨木・花隈はなくまという一帯を占め、播磨の国にも隣接していた。
村重謀反は秀吉の包囲するその播磨の別所長治を勇気づけるとともに、もうあと一押しで息の根を止めえる筈の本願寺を、ふたたび生き返らせることにつながっていた。
そう気付いた信長はb、ほとんど例外的といってもよいほどに噴き出す怒りを必死で押し止め、再三、村重に使者を送って説得につとめた。
義昭は予期していた以上の結果に、してやったりとした笑顔をうかべている。
「やってみなければ、わからぬものよ」
謙信の急死で破綻した信長包囲網を、義昭は謀略という裏技でつくろったことになった。
信長に村重逆心の第一報を送ったのは細川藤孝であった。以後同様な情報がつづき、噂はたんなる噂ではなくなっていった。義昭は長年起居をともにした藤孝を知り尽くしている。
その藤孝に内書の件をいかにして信じさせるかが、今回の謀略の鍵ででもあった。すでに村重が内書によって本願寺に味方することを約束して来たと、それとなく手紙で藤孝に匂わせたことが義昭の謀略の成功を見た一因となっていた。
信長の説得に一度は心の動揺をみせた村重ではあったが、もはやこの時点で抜き差しならぬ所に立たされている己自身の立場を感じはじめていた。
本願寺、毛利からの反信長に対する結束を呼びかける使者がひきも切らず、義昭からの内書もつづけさまに送られて来ていた。
ついに村重は本願寺顕如と毛利に、人質を差し出して信長包囲網に参画するほぞを固めた。
窮地の信長は朝廷に働きかけ、「本願寺と毛利は信長と和睦せよ」という綸旨を出させて、事態の好転を計ろうとした。当然、本願寺もこれに頷くわけがなく、打倒信長を叫びつづける義昭は、毛利輝元に強く出兵をすすめた。
2023/05/23
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