~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-09
十一月六日未明、木津川河口に六百余艘の毛利の船団が押し寄せた。
二年前には村上武吉率いる毛利側水軍に、この河口で織田はさんざんな目にあっている。
水軍力の優劣を見せつけられた信長は、ために九鬼に命じて新工夫の船を造らせていた。船体の多くが鉄板で覆われた大安宅おおあたか六艘であり、九鬼はすでにその船団で雑賀を破って堺浦に入港しこの日のために河口を封鎖していた。
先の勝利で毛利側は織田の水軍をなめきっていた。
「鉄船など恐れるに足りん」
おごれる気持の毛利側水軍諸将は、村上武吉の到着を待たずして、河口めざして一気に進撃をはじめだしていた
その毛利船団を真近くにまで引寄せた後、九鬼の大安宅から大音響が鳴り響いた。大筒の砲弾は毛利側の関船を瞬時に粉砕し、あるいは巨大なうねりや水煙を噴き上げて船体をもんどりうたせた。
逆上した毛利側は遮二無二に河口を突破し、兵糧船を本願寺に送り込もうと九鬼船団に攻め太鼓の音とともに群れかかった。しかし、かすみのようにただよっていた硝煙が消え、ふたたび海上にもとの静寂が戻って来た時、大坂湾の波間にはおびただしい数の毛利側の船印ふなじるしやのぼり・木片などがゴミのように浮んでいるだけであった。
この海戦に気を良くした信長は、村重討伐に本腰を入れはじめ、村重の片腕ともいわれる高槻城の高山右近うこんや茨木城の中川清秀きよひでを降伏させ、秀吉・光秀をふたたび播磨と丹波に復帰させ、一時は混乱した戦線をようやく立て直らせることに成功した。
孤立しつつある本願寺からは、義昭に毛利の出兵を催促してほしいと急使が来た。
情勢が日々信長有利になって来つつあることに苛立つ義昭は、本願寺・村重を援助し、信長を討てと吉川元春を通じて輝元に出兵をうながさせ、武田勝頼に対しても内書を送りつけた。
天正七年正月早々の祝いの行事もそこそこに、義昭は元春、隆景に命じて、毛利の出兵を強く輝元に勧めさせた。迷いに迷った輝元は、ついに出兵を決断し、これを領内諸将に下命した。また、気脈を通じる武田勝頼に対して、家康を攻撃して背後から信長を牽制するようにと要請して万全を期した。
氏政うじまさの妹を妻に迎えたことで、北条との同盟を復活した勝頼は、これによって駿河するがから遠江とうとうみに攻め込む路を確保でき、家康と戦いつづけながら徐々にかつての勢力をもりかえしつつあった。義昭の内書と輝元からの要請をうけた勝頼は、ただちに家康領に軍を侵攻させた。
が、ここに来て、肝心の毛利が重臣の叛逆と背後の大友宗麟の動きに気を取られ、結局、出兵を延期してしまった。
「輝元には、信長を叩く好機であることがわからぬのか」
あきれた義昭は、恵瓊を呼びつけ輝元の優柔不断をなじりはしたが、内から火を出している最中に出兵するなどという危険な行動をもともと毛利は取らないことを義昭自身もすでに承知していた。ただ、気ばかりがあせった。せっかく広げた信長包囲網という網の効果が、不発に終わりそうで悔しかった。
武田勝頼が遠江に出撃してきたことで、信長が村重包囲の陣から急遽反転して完成した安土城に戻ったのは五月三日のことである。
本願寺顕如と村重が「いまこそ」と、やっきとなって毛利の東上をうながしていた。
しかし、六月に入って丹波の八上やがみ城が光秀の働きのよって落城し、備前の宇喜多直家が竹中半兵衛のあとをうけて秀吉の参謀格となった黒田孝高よしたか(先の小寺官兵衛)の勧誘をうけて織田側に寝返ったことで毛利は激しく動揺し、さらに十月に伯耆の南条元続が織田になびき、直家とともに美作みまさか南部の祝山城に攻めかかって来たので毛利は出兵どころではなくなり、東上作戦をかなぐり捨ててひたすら守勢の形を取るはめになってしまった。
2023/05/24
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