~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-10
天正六年三月二十九日から秀吉の三木城攻撃は、始まっていた。篭城する別所方七、八千に対して、秀吉は二万の大軍を率いていた。
三木川に守られたこの城は、要害堅固であり、二十二才の若さとはいえ領主長治は知略・胆力ともに備わっていた。攻めあぐねた秀吉はこの年の暮れまでに参謀の竹中半兵衛、黒田孝高の意見を容れて兵糧攻めに転じ、四里にもわたる堡塁ほるいを完成させた。
孤立した三木城を救うべく、毛利は何度も兵糧を搬入しようとしたが、そのつど秀吉の大軍にさえぎられ失敗を繰返す。この間、餓えに苦しむ城側からの救援要請はひきも切らさず、翌天正七年九月に、毛利は八千の軍夫を動員して、かつてない大々的規模の兵糧搬入作戦を実行し、三木城近くにまで接近したが、鉄壁の包囲陣をついに抜き破る事が出来ず、押し返された。
篭城二年目の天正八年一月の総攻撃を受けて、草の根、木の皮、軍馬を喰い尽くして戦う気力の喪失した城側はもろくも落城、長治は妻子の首をはねた後自刃した。
いったんは信長の背後を脅かすかにみえた武田勝頼も、ちょうどその頃、謙信亡き後の上杉の家督争いに捲き込まれ、兵を越後に転ぜざるを得ず、また、十ヶ月余にわたって織田の大軍に包囲されつづけた荒木村重も、自ら毛利の援軍を請うため城を脱出し、これを知った織田側の総攻撃を受けて、城主不在の有岡ありおか城はあっけなくも落城してしまった。織田側は残留婦女子、若党ら多数を捕らえて焚き殺し、村重妻妾一族を六条河原で斬殺し、反抗した報いを天下に見せ付けていた。
三木城を落とした秀吉は、その後、姫路城を根拠地としていよいよ中国地方の平定に本腰を入れはじめ、逆に、毛利はひたすら守勢一方にまわりこみ、石山本願寺はまったく孤立していった。
見るに見かねた朝廷は、本願寺、信長に対し和睦を勧告した。これまで何度となく本願寺からの援助を受けて来た朝廷としても、法燈まで滅びさせるにしのびない気持を持ったためでもあろうか。
信長は、石山の地を本願寺が離れるならば応じようと回答した。苦悩の顕如はなんとか寺地ふぁけは維持しようと折衝にねばりを見せたが、結局、兵糧・弾薬もなく信長の要求をはねつける力はもはや残ってはいなかった。
ついに顕如は大坂退城を約束した。
これをうけて信長は、本願寺を許す旨の血判起請文を書いて朝廷に提出した。ここに一世紀にわたって戦いつづけた一向一揆は終息した。と同時に、この時点で、義昭の大いなる謀略も泡沫となって消え去ったかに見えた。
顕如が石山を退出したのは四月九日の早暁であった。
堺浦から紀州雑賀の地へと向い、さぎの森御坊に到着したのは翌十日のことであった。

── 教如 ── 顕如のあとを継ぐべき実子である。二十三才であった。この教如が石山退城に最後まで反対して顕如と衝突し、主戦派の者らと共になお篭城しつづけていた。
教如は諸国門徒に檄を飛ばし、信長に立ち向かえと石山から声を張り上げた。
「輝元に、教如ほどの覇気があればのう」
とは、義昭の溜め息と共に洩らす言葉であり、教如の行動におしみない喝采を送りはしたが、意地だけで信長に勝てようはずがないことはわかりすぎていた。
篭城側に呼応する者もなく、村重の花隈・尼崎両城も陥落して、万策尽き果てた教如は近衛前久このえさきひさの斡旋を受け入れざるを得なくなり、唇を噛んでようやく和議に応じたのは八月二日のことであった。
教如をはじめ最後まで信長に抵抗した篭城勢は、淡路、雑賀などからの迎えの船に分乗して石山の地を離れて行った。が、教如はすんなりとは城を信長に明け渡しはしなかった。蓮如が開創してより八十五年、証如しょうにょが寺を移してより四十九年、上町台地に築かれた壮大華麗な伽藍は、教如の執念が乗り移ったかのように西の風にあおられてメラメラと炎を噴き上げていたのである。
火は三日間にわたってことごとく焼き尽くし、すべてを灰にした。
「糞坊主め」
怒った信長は教如捕縛を強く命じたが、このことあるを予想していた教如は、すでに足跡を消していた。 
2023/05/24
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