~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
信長包囲網 Part-11
秀吉が先鋒となって動き出した織田の西下と毛利の東上は、尼子の上月城の争奪では一度は毛利に凱歌があったが、その後の戦いではつねに織田側が優勢となって展開していた。
但馬たじまを掌中にし、四十四才とはいえまるで疲れを知らぬかのように秀吉が美作・因幡方面を休みなく駆けまわって、次に攻撃目標にしていたのが鳥取城であった。
城主山名豊国とよくにが突如毛利に反抗する姿勢を見せ、逆に森下・中村などの重臣たちによって城を追われたのは、この九月のことであった。以前から何度となく誘いのあった秀吉を頼って豊国は姫路に身を寄せ、これに対抗して重臣側は吉川春元に主となる城将の派遣と援軍を依頼する旨の使者を送っていた。
石見福光城主吉川経安つねやすの嫡子経家つねいえが、四百余を率いて福光城を出発したのは、翌天正九年二月であった。
名将と言われる三十五才の経家は、部下の一人に己の首桶を持たせるほど並々でない覚悟をみせた出陣でもあった。
鳥取城は平野の中にある久松山の山頂に築かれ、山は高くはないが「天より釣りたる」と言われるほど嶮岨で、山麓にもくるわがあって防備は万全の城といえた。
のちに「三木の干殺ひごろし、鳥取の喝殺かつえごろし」と評される秀吉のこれら城攻略法は、敵の食糧の補給路を絶って城兵を餓え弱らせて降伏させるというものであったが、二年にも渡った三木城攻めに懲りていた秀吉は新たなる謀略をすでに講じていた。それは莫大な軍資金を投じて若狭の商人に若狭・丹後の米を買い占めさせ、最後の仕上げに因幡の米を買い尽くさせるというものであった。
当然、米の値段が跳ね上がる。このとき、鳥取城主はまだ山名豊国であって、秀吉の遠大な作戦とも気付かぬ豊国は値のよいことに喜んでほとんどの城の米を売り払ってしまっていた。もともと戦意のない豊国であってみれば、その行為もべつだん不思議ともされないが、秀吉の作戦はこれによってさらにもくろみ以上に進行したと言える。
こうしておいて秀吉が姫路を出陣したのは六月二十五日であり、鳥取城を完全に包囲したのは十数日後のことであった。
入城して倉に米がないことを発見した経家は、当初、因幡は米の産地であるからして、兵糧を集めることはそれほど困難ではないと思っていた。が、いざ買い集めを命じると、もうほとんど手に入る状態ではなくなっていた。驚いた経家は、すぐさま父の経安に食糧の補給を依頼し、経安も吉川元春に毛利本家の援助を懇願した。
元春、隆景が兵をくり出し、海上から援兵や食糧を送り込もうとしたが、秀吉が毛利の援軍に備えて包囲をさらに厳重にし、鳥取沖の海上にも三百余の軍船を浮かべて補給路を完全に遮断していたために、そのことごとくが失敗した。秀吉軍は城を攻めることよりも、城を孤立させることに重点を置いたいたために、決戦となるような激しい戦いはなく、それがかえって篭城側のいらだちを倍加させていた。
城中の食糧は九月に底をついた。毛利は千代川の河口から食糧を運び入れようとしたが、激戦の末に敗れ、逆に六十五艘の船と荷を奪われる結果となってしまった。
吉川元春は安芸から出雲。伯耆に進出して鳥取城を救おうとしたが、途中の南条 元続 もとつぐ の城が抜けずに東進は中断し、輝元、隆景も織田に寝返った宇喜多の動きで備前・備中・美作の山陽方面の軍事に釘づけとなっていた。
城内は飢餓地獄と化していた。城には兵ばかりではなく領民たちも逃げ込んでいる。そのように追い込んだのは秀吉の指図であった。人間の数が多ければ多いほど城内の食糧が早く減じる計算であった。牛馬を食いつくし、木の皮、草の根を食いつくしたあげくには、死人の肉まで食べはじめていた。飢えに狂って城柵を乗り越えようとした者は秀吉側の鉄砲隊によって狙撃され、その倒れた者の肉を求めて人が群れた。また、我が子の死体に噛みつく者も居て、まさに眼を おお う地獄の有様となっていった。
十月の半ばを過ぎると城内は、ただ餓死を待つばかりの状態に瀕し、ついに経家は使者を送って開城を申し入れた。秀吉はこの時を待っていたと言える。城兵の命と引き替えに経家が自刃し、重臣たちは 山名 やまな に不忠であっても毛利にとっては忠であり助命して欲しい経家の開城条件は、聞き入られなかった。逆に援軍の経家の命を助けようとする秀吉からの回答を今度は経家は潔くはねつけ、森下・中村ら重臣たちが自刃した後割腹して果てた。
元春が兵六千を率いて、通過した後の 橋津 はしづ 川の橋を斬って落とし、船も沈めて文字通り背水の陣で伯耆の馬の山に到着した時には、すでに落城したあとのことであった。
死を覚悟した軍団ほど恐いものはない。噛みつかれて傷でも負っては損だとばかりに、元春の軍を前にした秀吉は早々に兵をまとめて退却にかかったいた。
吉川経安は、我が子経家が死をもって篭城者の生命を救ったことを子々孫々に伝えるべく遺言書をしたためていた。その冒頭に言う。
── 足利義昭は信長を征伐するために備後鞆に動座した。輝元が副将軍となり元春、隆景ら毛利は義昭を奉じて逆賊信長と戦いつづけた ──
この遺言状からもわかるように、血は力であるという義昭の尊さは、毛利の国侍たちにとってはまだまだ精神的な支えでもあったのである
2023/05/25
Next