~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
最後の謀略 Part-01
武田勝頼が天文山麓てんもんさんろで悲劇的な最後を遂げたのは、天正十年三月であった。信玄以来の軍団が、わずか一ヶ月余りで、織田、徳川連合軍によって雪崩のごとく崩壊していった原因の一つには、勝頼の叔父穴山梅雪あなやまばいせつの裏切りがあげられる。最強を誇った武田は、内から崩れ去り、この武田の滅亡によって東国で信長に刃向かう勢力はいなくなっていた。家督争いに景勝が勝ったとはいえ、上杉は越後を二つに割る内乱で国は乱れて弱体化し、すでにして織田の敵ではなくなっていた。
これによって戦力に余裕の出来た信長は、西の毛利に全神経を集注することが出来た。
迫り来る信長の足音に怯える義昭は、藁にもすがる思いで内書を書いた。
明智光秀にである。
光秀と信長の仲が、近頃しっくりいっていないということを耳にしていたからである。
義昭は朝倉に身を寄せていた当時を振り返り、そのころの光秀を懐かしみながら筆をすすめた。ために、内書は真心のこもった長文ともなっていた。
この内書によって光秀の気持にどんな影響が出るかはわからない。しかし、義昭としてはもはや内書を書いて頼みを繋ぎ得る者としては、光秀以外には誰も浮かべることが出来なかった。そうしておいて義昭は、心細さと恐怖心を払いにけるかのように吉川元春に対して使者を送り、
「信長に備えよ」
と、強い口調で指令を発していた。
謀略家の義昭としては、自分と同じような性癖である熟慮の隆景には心の内が見透かされるようでなんとなく」けむたく、逆に、激しやすい生一本の元春の方が命令を出すには出しやすかった。
秀吉が播磨・但馬・因幡の兵を率いて間もなく姫路から備中に向けて繰り出すだろうとの情報を持った安国寺恵瓊が、安芸に向う途中、鞆の義昭を久々に訪れて来た。
恵瓊はその頃、京都東福寺西堂に任命され、また、安芸の安国寺の住持じゅうじをも兼ねている。
「公方様にはお変りもなく」
無沙汰を詫びる挨拶の後、恵瓊は武田の滅亡からはじまって最近の織田側の動向について、知り得ている上方の情報に己独特の見解を交えて義昭に話し出した。
「宇喜多直家の死したることは、確実でございまする」
直家の死については、宇喜多側がふた隠しにしていた。
「宇喜多の重臣どもが安土に信長を訪ね、秀家の跡目相続の承認を得たと聞き及んでおりまする」
「あい変わらずの早耳じゃの。それよりも信長と光秀の間が不穏だという噂を聞かぬか?」
義昭は己の内書の効果を早く確かめたかった。多少とも動きがあれば、恵瓊ならば察知している筈である。
しかし、これには恵瓊はにべもなく首を振り、まったくそういうことは耳にしていないと言う。
「うむ」
と、義昭は、ただ頷くより仕方がなかった。
「こののち秀吉軍の先鋒は、この秀家が努めることでござりましょ」
恵瓊は義昭の気持には頓着なく、先程の話の先をつづけてきた。
義昭も耳を傾けざるを得ない。
「して、その秀家はいかほどの軍勢を率いてじゃ」
気をとりなおして、今度は義昭が問うた。
「されば、およそ一万、秀吉の軍勢とあわすれば二万七千が、まもなく備中に押し寄せまする」
「もはや毛利は、国をあげてこの強大となった織田と戦って勝つこと以外、生き残る道はござらぬ」
その博打のような戦いのきっかけをゆくったのは義昭であると、恵瓊は言いたかったのかも知れない。
義昭は、これに対してなんとも口にしなかった。
秀吉がいよいよ芸備方面に矛先を向けて来ることで、輝元、元春、隆景はこの正月に吉田において協議を重ね、隆景は三原みはらに高松城の清水宗治むねはるら備中の城主たちを招いて決意をあらためて固めさせたことを報告した恵瓊は、やがて“鉢ひらきの頭”を深々と義昭の前に下げると、毛利の困難に京でじっとしておれなくなったという皮肉とも取れる一言を残して去った行った。
2023/05/26
Next