~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
最後の謀略 Part-02
秀吉は宇喜多の沼城に到着するにはしたが、しばらくはそこを動かなかった。彼がとった戦法はまず毛利側諸将へに切崩きりくずしであった。のちに、“人たらしの名人”とまで言われた秀吉の謀略法は、天才的であり、溢れるほどの誠意を誠意を相手に感じさせるにも念が入っていた。が、それほどまでの秀吉の誘降戦略も、毛利側諸将に動揺を与えはしたが、通じるまでには至らなかった。
あとは力押しに攻めるしか方法がない。秀吉は高松城の北、竜王山に本陣を構えて攻略を開始した。小早川隆景がとるものもとりあえず三原から東進し、福山に陣を置いて恵瓊とともに眼前の秀吉軍に対しはしたが、背後の大友にも兵を割いていて、単独ではとてものことに秀吉の大軍とは戦い得ず、輝元と山陰から南下して来る元春の援軍を待つ以外に打つ手もなかった。
その元春も南条に対して兵を残した状態で、やっと到着して来たのは五月に入ってからであった。
一方、秀吉は、難攻不落と言われる高松城に攻撃を仕掛けていたが、結果は手ひどく敗退していた。そこで尋常な手段では落とすこのの不可能をさとった秀吉は、陣をかえるヶ鼻に移すや、前代未聞の戦術に取り掛かった。
兵に刀や槍のかわりにすきくわを持たせた一大土木事業を始めだしたのである。足守川の水をせき止め、おりからの梅雨期に便乗して高松城に水攻めをかけようというものであった。工事には多数の土民を使い、土一俵に銭百文、米一升を支払った。
救援の元春、隆景が岩崎山と日差ひざし山に陣を進め、輝元が猿懸さるかけ城に布陣して来た時には、堤はすでに完成した後であった。この間、十日ばかり、まさに当時としては神業とも言える早さであった。
日差山から蛇行する足守川を眼下に見下ろした恵瓊は、しばらく会っていない間に秀吉と言う男が、一枚も二枚も大きな存在になっていることに驚きを禁じ得なかった。
秀吉の布陣は鉄壁である。援軍の毛利がつけ入る隙を見出せないままに両軍の対峙はつづき、しとしと雨はやがて豪雨となって彼らの頭上に降り注いだ。雨は止まず、高松城は水の中で孤立した。
高松城が落ちれば、あとは毛利と織田の一騎討が残っているだけである。当初から毛利が大軍を率いて来ることを予想していた秀吉は、すでに信長の出馬を依頼していた。自分が単独で大国毛利と戦って敗れれば、信長からの死か叱責が待っているだけであり、もし仮に勝ったとしても、この後力をつきすぎたことで信長に警戒され睨まれるだけであることをこの男は見抜いていた。
それよりも信長自らの出馬と指揮によって毛利に勝てば、秀吉としても任務をつくしたこととなり、もしや敗退ということになっても、それほどの責任を追及されるこよはないと先々を読んでいた。が、その予想に反して現実の毛利は秀吉の率いる兵力の三分の一程度でしか出陣して来ていなかった。このまま戦えばほぼ勝利は確実とはいえ、援軍を請うている手前、いまさらことわりもならず、信長の出陣を秀吉は水没直前の高松城を眼の前にして、連日の雨の陣で待ちつづけていた。
その同じ雨は鞆の湊にも降っている。
もう何度となく大きな溜め息を洩らしている義昭の視線は、今日も止むことがない雨に向けられていた。
思えば信長との出会いのきっかけは、明智光秀の出現によって実現した。
そして今、信長との敵対は、光秀が義昭の側を離れていった頃から開始していたとも言える。
そう思えば光秀という男の存在は、義昭の人生を良くも悪しくもしたと言えなくもない。
「不思議な男よな」
義昭はそうつぶやくと、まさかという期待を抱きつつ机に向かった。光秀宛の内書をふたたび書くためにである。
織田の主なる武将たちは、いま各地に散っている。光秀が兵を挙げるには絶好機であり、毛利と力を合わせるならば天下を動かせようち書き、毛利とともに信長を倒せと命じた。
「動け! 光秀」
義昭は心の中でそう念じつつ、筆を走らせた。
2023/05/28
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