~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
本能寺 Part-01
武田を滅亡させた信長が、滝川一益には上野国を厩橋ううまやばしに常駐させ、家康には駿河一国を与えて、安土に凱旋した。
もはや信長に対して、まともに立ち向かえるような敵の存在はいなくなっていた。家康の案内で東海道を富士を眺めながらの悠々たる道中であった。
その家康が駿河をもらった謝礼のため、わずかな供回りと武田の降将穴山梅雪を同道して安土城を訪れて来たのが五月十五日であった。
梅雪は旧領安堵の礼を述べるための来訪であった。
信長は家康接待役に、非番の光秀を当てた。
毛利と対戦中の秀吉からの急使が、安土に到着したのがこんな時であった。余裕の信長のはこの際、毛利と四国の長宗我部ちょうそがべを一挙同時に討伐することを考えていた。
すでにして四国渡海には三男信隆のぶたかを総大将に、丹羽長秀に後見役を命じて軍勢を大坂に集結させつつあった。
信長は、丹後の細川藤孝、摂津の池田恒興らに備中への出陣命令を発するとともに、接待役を長谷川秀一に変更して、光秀にも備中出陣を命じ、自らも本陣を備中・四国の両方に対処可能な淡路島と定めて、出陣を正式に発表した。
甲斐国から凱旋した嫡男信忠に二千余を率いさせてまず先発させ、自らが僅かな馬廻り衆・小姓・女中衆ら七十余で安土を出発し、初夏の浜街道をのんびりと京に向ったのが五月二十九日であった。
上洛するに先だって信長は、京都所司代村井貞勝から誠仁さねひと親王の下御所に義昭の使者が侵入し、これを捕らえたが自害されたとの報告を受けていた。朝廷側には今なお義昭を贔屓ひいきにする公家が居る。策謀止まぬ義昭にはいまいましさを感じる信長出はあったが、もはや義昭の存在など鼻先であしらえるほどに今の信長の権力は盤石であった。
それよりも、今回の上洛で信長は、朝廷より強く推されている征夷大将軍の任官について、自らの意志を明らかにし、奉答ほうとうすることを約束していた。
安土を訪れ何が何でも位を授け官位でもって手なづけようとする勅使に対して、信長は即答を避け、すべては上洛の折に申し上げると、逆に気を持たせる不気味な態度をとり続けていた。
その夜、信忠らは妙覚寺に、そして、小姓ら七十余とともに信長は西条西洞院とういん本能寺を宿所としていた。
本能寺は応永二十二年の創建であるが、英享五年および天文十四年の移転によってようやく四条の位置に定着した法華の寺である。寺とは言いながら、信長の宿所として当時はまだ未完ながらも四方に堀を穿うがち、掘ったその土で内側に高く築地をめぐらせ、内に仏殿・客殿のほか殿舎や厩舎も建てられていて、一見すると小城郭のようであった。
六月一日には近衛前久、九条兼孝など名だたる堂上公家衆や高僧たちが続々と信長の上洛を賀するために、この寺を訪れていた。これに応えて信長は、豪商であり茶人としても名高い島井宗室そうしつや神谷宗湛そうたんを加えて、安土からわざわざ運ばせて来た秘蔵の名物茶器三十八種を披露するために茶会を催した。
夜に入って宿所の妙覚寺から信忠も訪れ、酒宴となったが、この日の信長はかつてみられなかったほどに機嫌が良く、己の壮年の昔を語るなど近習・小姓にまでやさしい言葉をかけていた。
酒宴の後、碁の名人たちを呼び寄せて観戦し、信忠が妙覚寺に帰ったのは九つ(御前〇時)をかなり過ぎた後であった。
誰もが予想だにしなかった六月二日未明の事変は、これまでもっとも運に恵まれていた信長をして、
「是非におよばず」
と、言わしめる結果となった。
本能寺が炎上し、妙覚寺から二条御所に立て篭もった信忠も御所に火をかけて自刃したのは、辰の刻(午前九時)ごろであったろうか。
明智光秀の謀反と信長の死であった。
2023/05/29
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