~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
本能寺 Part-02
義昭がこの事を知ったのは七日の夕刻である。
この日義昭は、常国寺の御所で槙木嶋昭光を相手に碁を打っていた。小早川隆景からの書状が届いたのは、義昭が次の一手を打つべく思案に首をひねっていた時であった。
その義昭の、書状を一読した手が小刻みに震え出していた。
「いかがなされましたか、御所様」
書状の字面を睨みつけたまま、うなるばかりの義昭に対して、植木嶋昭光が思わず声をかけたほど、義昭の顔は興奮に満ちていた。
「御所様」
再度の植木嶋昭光の声に対して義昭は、
「信長が、信長めが死によったぞ! 光秀の謀反じゃ」
と、書状を植木嶋昭光に投げ出すようにして一声叫び、狂ったかのように笑い出した。
これまで光秀が内書に対していかなる反応も義昭に示して来たわけでもなかった。それがまさか現実に実行するなどということは、なお信じられない気持であった。
「隆景がまさか不確かな書状を送って来るわけもござりますまい。それによれば、去る六月二日のこととしてござりまするが、さすれば、信長死してより今日ではや五日。明智の謀反とはもうせ、まことにあっけない信長の死にようではござりまするな」
槙木嶋昭光の声にも、うわの空の義昭はおおきく一つ息を吸い込んだ後、
「勝った。余は信長に勝ったぞよ! それにしても、光秀はようやった。やはり光秀は忠義の男ではあった」
なお興奮さめやらぬのか、義昭はせかせかと部屋中を歩きまわって、そう叫びつづけていた。
この日、義昭はさらなる詳細を知るべく、備中高松の小早川隆景のもとに昭光を派遣するとともに、光秀に宛てて内書を書いた。
状況次第では、毛利に命じてすぐさま帰洛の準備を始めなければならないし、光秀に対しても新たなる指令を発する必要があった。
この返事に、出奔していた一色藤長が戻って来た。
上方に居たという藤長の話で、よりいっそう詳しい状況が知れた。上方で義昭のために働いていたという藤長を許し、さっそく光秀に内書を届ける役を命じていた。
毛利と明智で織田勢を都より駆逐すれば、義昭が再び足利幕府の将軍として都に君臨できることが夢ではなく、いよいよ実現可能となって来たのである。そう思うと義昭は嬉しさで胸がいっぱいになるほどであった。
はるばると鞆の地までこの身を流させて来た永年の苦労に、万感たるものがあった。
が、その夜更け、槙木嶋昭光が戻って来ての報告で、義昭の顔がこわばってしまっていた。
毛利が信長の死を知った時、すでに秀吉は毛利との和議を成立させて、さっさと陣を引き払い東上したあとのことだったという。
「猿に欺かれたと、吉川元春などは地だん踏んでくやしがり、なお追撃を主張しつづけているありさまでござりました」
昭光の言葉に、
「秀吉に欺かれしとは、いかなることぞ」
和議成立に当たっての、毛利と秀吉の虚々実々の駆け引きをまだ知らぬ義昭は、合点がいかぬと首をひねり怒り叫んだ。
2023/05/30
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