~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
秀 吉 Part-02
本能寺の変から十一日目の六月十三日、明智、羽柴の両軍は、山城の国山崎街道で激突した。光秀の二倍半を上回る秀吉の兵力であった。
戦闘は激戦となったが、数に勝る秀吉勢に明智勢は戦線のすべてで敗れ、一刻(二時間)あまりで終結した。
完敗した光秀は、あずかな兵と共にいったんは勝竜寺城に入ったが、勝竜寺城が平城であることと、逃げ込んだ兵の多くが雑兵であったがために、とてものことに篭城などは出来ず、近江の坂本に残して来た部隊と合体して再起を謀るべく数名の近臣とともに夜陰に乗じて逃走した。
が、光秀は最後まで運に見放されてしまっていた。
間道を淀川の右岸より伏見に向い、大龜谷を過ぎて桃山北方の山道を越えた小栗栖おぐるすの地で土民の襲撃に会い、蹴散らしはしたものの竹槍で突かれた傷が深く、助からぬを悟って自ら腹を切っていた。
勝竜寺城は十四日に落城した。つづいて秀吉軍は亀山城を落とし近江に入るや、安土城から坂本城に移転した光秀の娘婿明智秀満ひでみつを追ってこれを包囲した。秀満は光秀の妻子と己の家族を殺したうえで、城に火を放って自刃した。坂本城炎上と同じこの日、安土城も何者かによって炎上し、地上から消えた。
光秀の首を本能寺に梟すと秀吉は、ただちに上方平定を報じる使者を各地の諸大名たちに送りつけていた。
あまりにもあっけない明智の滅亡に、兵を率いて三河より駆けつけようとしていた徳川家康や越中からの柴田勝家らは、仇討ち合戦がまったく秀吉の独断場で終了した結果に、なすところなく道中の途路で兵を返していた。
そして、義昭の帰洛にむけての喜びも、この僅かな短日の間で消滅してしまっていた。
が、義昭は帰洛をまだまだあきらめきりはしなかった。
たとえ明智が滅亡したとしても、織田軍団その後がどうなるかは明らかではない。天下がもう一揺れも二揺れもするに違いはなく、打つ手によっては足利幕府再興の夢も実現せぬものでもないとしぶとく考え直していた。
この義昭の予想がまったくの見当はずれなものではなかったことが、尾張の清州城ではやくも燻ぶりだしていた。
信長の家督相続と遺領配分をめぐってのごたごたである。明智討伐に後見役をつとめた三男神戸信孝を推す柴田勝家と、信長の孫三法師こそが直系の跡目としてふさわしいとする羽柴秀吉とに意見が大きく分かれていた。
勝家は三歳の幼児を担ぎ出した秀吉の腹黒さに腹を立てた。が、主の弔い合戦をやってのけた秀吉の発言権と人気は勝家を凌ぐものがあった。
結局、秀吉の意見が通ったような恰好で、三才の幼児三法師丸を信長の後継者とし、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四家老が後ろ盾となることで一件は落着した。
次男の信雄のぶかつ、三男の信孝のぶたかもしぶしぶながらもこれを承諾するよりほかになかったが、そのかわりに遺領配分では信雄は北伊勢の旧領のほかに尾張一国を領することとなり、信孝も美濃一国をもらって納得した。
柴田勝家は越前の旧領に加えて近江長浜を秀吉からゆずられ、池田恒興は摂津の池田・有馬のほか兵庫・大坂を与えられ、日和見ひよりみの筒井順慶は大和を安堵された。
その他に戦功のあった將士たちにはそれぞれ加増があったが、関東経営の緒についたばかりで一瞬にしてまわりが敵に変貌した重臣の滝川一益は、理由はともかくほうほうのていで逃げ帰って来た醜態を非難され、家老の列から外されて、かろうじて伊勢長島を安堵されただけに終わっていた。
が、秀吉自身は播磨の他に山城・河内の二国と光秀の旧領丹波を加えた。
2023/05/31
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