~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
秀 吉 Part-03
いったん納まったかのように見えていた織田軍団内の火種は、しかし、消えはせず内でなお燻ぶりつづけていた。
九月に勝家は、嫁に貰っていた信長の妹お市の名において、京都妙心寺で信長の百ヶ日法要した。
それに対抗するかのように、その翌日秀吉は、養子として貰っていた信長の四男秀勝を喪主として同じく京の紫野の大徳寺で百ヶ日忌を営んだ。
義昭のもくろみ通り、すでにしてこの頃には勝家、秀吉の間は相当に険悪な状態になっていることがそれで知れた。
さらに秀吉は、大徳寺で秀勝を喪主とした信長の葬礼を大々的に取り行っている。当日は秀勝が棺をかき、秀吉は太刀持ち役をつとめて、大徳寺は公家衆や見物人たちでごったがえす前代未聞の盛儀であった。
大徳寺にはその費用一万貫が寄付され、新たに総見院が建立されることになり、秀吉は朝廷より従五位近衛権少將このえごんのしょうしょうの位までを得た
織田軍団の中で日々強大となりつつある秀吉とは逆に、勝家の旗色は冴えなかった。
毛利はすでに秀吉に対しては、安国寺恵瓊を通じて輝元、元春、隆景の名で信長の弔いと光秀を討った祝いの書状と進物を贈っていたが、立場は複雑であって、この時の真の狙いは、講和の時に約束した領国割譲の条件をやわらげてもらう腹積もりだけがあったのことで、この時点まだまだ秀吉一辺倒に傾いたわけでもなかった。
織田軍団が二つに分かれたことで、毛利は再び二者選択に迫られていた。
天下が秀吉の下に落ちつくだろうと考える隆景と、その考えに同調する恵瓊、それに対してどうしても秀吉にとい感情を持てないでいる元春とで毛利も内部で大きく揺れていた。
そんな毛利の内情を察してか、勝家は吉川元春に対して使者を送り、よしみを通じて盟約を結ぶにいたっていた。
織田軍団の分裂を喜ぶ義昭としても、これ以上秀吉の力が増大することは面白くはなかった。
天下が再び大混乱をすることによって、己の存在価値が重要になることを知っている義昭は、当然、勝家に味方し、勝家の背後の敵である越後の上杉景勝に対して勝家と和睦するようにと内書を送った。
さらに義昭は、いざ帰洛の時期ともなれば、毛利ばかりを頼ってもおれぬと、薩摩の島津義久に対して内書を送り帰洛にあたっての財政的援助を申し入れていた。
勝家が吉川元春と気脈を通じていたように、秀吉もまた気心の知れている安国寺恵瓊を通じて小早川隆景に接近を計っていた。
勝家、秀吉間の空気はいよいよ悪化し、勝家はついに信長の三男神戸信孝を奉じ、滝川一益と結んでついに兵を挙げた。滝川には九鬼水軍と言う盟友があり、心強い味方といえた。
伊勢の滝川、岐阜の信孝、そして越前の勝家が三方面で同時に兵を挙げることによって秀吉軍を翻弄し、疲れたところを包囲して討ち取る作戦であった。
むろん秀吉は、信長の後継者として信孝となにかにつけて張り合っている北畠信雄を旗頭とし、丹羽長秀、中川清秀、筒井順慶らを傘下に納めて、総軍を三つに分けながらも、当面の攻撃目標を伊勢の亀山城と岐阜城にしぼってきた。
運と言えばそれまでだが、勝家は挙兵する時期が悪かったと言える。その年の冬は雪が早く勝家が大軍を動かす前に越前の道はもう完全に雪に埋もれてしまっていた。
勝家は傘下の前田利家を使者に立てて、秀吉に対して休戦を申し入れた。秀吉は快諾した。が、この時の秀吉は、のちの家康が狸と言われた以上に狸であった。
講和を誓った二日後にはもう滝川を北畠信雄によって牽制させ、信孝の岐阜城を三万で包囲した。孤立の信孝は配下の美濃衆からは離反され、兼山白の森長可ながよしに裏切られて、三法師丸(信長の後継者)を安土に移すことと人質を出す条件で降伏した。
2023/06/02
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