~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
家 康 Part-01
越前を平定し、実力で織田軍団を後継した形の秀吉は、まず、その力を見せつける第一歩として、毛利に対し和議の時より棚上げ状態となっていた領国割譲の件について、蜂須賀正勝と黒田高を備中へ派遣してきた。
当初は備後、備中、出雲、伯耆、美作の五ヶ国を譲れというものであったが、毛利側交渉役の恵瓊が秀吉の怒りを買わぬ程度に、しぶとくねばった。
隆景あての書状では、当初秀吉は、威嚇めいたことをいってはいあたが、恵瓊には秀吉の腹がある程度は読めてもいた。
織田軍団を後継したとはいえ、秀吉に対抗する者として家康があり、九州には島津などの勢力がある。なろうことなら秀吉としても、あえて毛利とは戦いたくはない。
逆に毛利を抱き込み得れば、労せずに瀬戸内の制海権を獲得出来る事になり、永年悩ましつづけてきた義昭というやっかいな存在に対しても、今度という今度で終止符が打てようよいうものであった。
備前びぜん一国、美作みまさか一国、備中びっちゅう一国、伯耆ほうき一国の、つごう三ヶ国の割譲という元春の子経信つねのぶ(のちの広家)と隆景の養子元房もとふさ(元就の末子)とを人質として大坂に送れという、毛利にとってはまたく寛大ともいえる処置でこの件は落着をみせた。
人質の件では元春はふたたび怒りはしたものの、恵瓊になだめられ、経信、元房が恵瓊と共に大坂に向ったのが九月の中旬であった。
が、三ヶ国を領有する毛利側属将たちが輝元の説得にもかかわらずこの後も納得せず、領土割譲は現実的には依然として難行していた。しかし、秀吉はなおも寛大でありつづけ黙認していた。
そうしなければならない理由の一つに家康の存在があった。家康との勢力の対抗上、なんとしてでも完全に毛利を己が傘下に納めておく必要があったといえる。
滝川を降伏させ、信孝を自害させた秀吉は、この時大坂に巨大な城を築きはじめていた。
これもまた、ある意味では家康に対し、天下はもうすでに秀吉のものであるという、一種の力の誇示をあらわす宣言のようなものであった。
三十余国の諸大名にその工事を命じ、動員する人夫の数は一日に三万を下らなかった。
かつて信長が安土に壮大華麗な城を築いたように、秀吉は大坂の地に難攻不落の居城を築こうとしていた。
城は二年後の天正十三年にほぼ完成するが、天守台の石垣はすでにこの年の暮れには出来上がっていた。
信雄と秀吉の間がにわかに険悪となったのは、翌天正十二年の春頃である。ことの起こりは、信雄の三家老が秀吉から利をもって誘われたというののであった 。
前にも書いたが、もともと秀吉は人たらしの名人と言われている。
秀吉がこの三家老に日頃からなにかとよしみを送っていたのは事実であったが、疑えばきりがない。が、逆上した信雄がことの真偽をろくに確かめもせず、ただちにこの三家老を暗殺してしまったことで、秀吉を“ムッ”とさせた。
そもそも秀吉に対して信雄が良い感情を持たなくなったのは、この年の正月、秀吉が三法師丸を擁護して諸大名たちに新年の祝賀の出仕を強要したことによる。
新年祝賀の出仕は信長の安土城参勤の前例にならったものではあったが、いかに三法師丸の存在があるとはいえ、出仕は事実上秀吉に対するものと同じでもあった。
信雄には信長次男という矜持が、まだまだ捨て切れない。秀吉自身にしても、信雄に対しては以前と同様にへりくだった態度を取り続けていることもあった。会えばまず秀吉の方から先に頭を下げるのは今でも自然のこととなっていた。そんな状態の中で秀吉が、突然並の大名と同じように信雄に出仕を求めて来たことが、信雄の臍を曲げさせる原因となっていた。
2023/06/03
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