~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
家 康 Part-02
信雄は不満と怒りを家康に打ち明けた。
家康は父信長の盟友でもあったし、実力から言っても秀吉に負けず劣らずの勢力を現在は保有している。
信雄が三家老を腹いせに紛れて殺したことも、背後に家康の力を意識してのことであった。
その家康はすでに北条と和睦し、関東での地盤を固め終えるや秀吉の出方を窺っていた。
家康はかねてから四国の長宗我部、越中の長宗我部、越中の佐々、根来などの勢力に働きかけ、秀吉を包囲しようとする腹をもっており、秀吉は上杉、前だ、蜂須賀などで家康勢力の抑えと考えていた。
「ともに秀吉めを滅ぼそう」
という信雄からの誘いに、一瞬家康はくびれた顎をひき顔をひきしめたが、傍らの本田正信をかえりみた顔の中には秘めた笑みが浮かんでいた。
これによって家康には、盟友信長の遺子信雄を援助するという大義名分が出来たことになる。
家康は越後の上杉に備えを置くと、自らは八千の精兵を率いて浜松を出発した。
これに対して何の名分も持たない秀吉は、信雄が三家老を理不尽にも成敗してことを非難し、これを挑戦の理由として大坂から近江の坂本へ出陣した。
この戦雲を一番喜んだのは、鞆の地の義昭であった。
毛利を頼ることに絶望となっていた義昭は、ついに島津をあてにして、九州の果てまでもと心を決めていた矢先であった。
信長の仇討ちに間に合わず、天下取りへの最大のきっかけをなくした家康は、その後の織田軍団内の勢力抗争にはまったく傍観の立場を取っていたが、天下への夢をなくしていたわけではなかった 。武田滅亡後の甲州を侵略し、戦国期最強とまで評された武田家臣団を己が軍団に組み入れ、さらなる地盤を堅固なものにしていた。
その家康に再びめぐって来た天下取りへのきっかけででもあった。
誰もが一大動乱を予想した。
義昭は家康に期待を持って、ただちに励ます内容の内書を送った。九分九厘あきらめていた帰洛が、家康の力によって可能となる期待が持てたのである。
義昭は根来や雑賀の一揆に働きかえ、西国大名たちに“秀吉を討て”と内書を連発した。むろん毛利に対しても家康に味方するようにと書き送った。
緒戦でまず秀吉側が信雄側の重要拠点である犬山城を陥落させたため、やむなく、家康、信を連合軍は清州より小牧に出陣し、小牧山を占領した。が、この丘ともいえそうな小山を先に取ったことに依って、家康、信雄軍はその後、俄然戦況を有利に展開することが出来るようになっていた。
小牧山は付近に眺望を妨げるものがまったくなく、濃尾平野が手に取るように望まれた。
「してやったり」
と、思わず家康の口からそんな言葉がこぼれ出たほどである。
この位置ならば、敵のどのような策戦にも対応出来得るというものであった。
早速、家康はこの地を本陣と定め、山全体を要塞化させた。
緒戦の勝ちでいったんは大坂に戻っていた秀吉が、再度出陣してこれを知った時、義昭の先導によって根来、雑賀が岸和田、泉大津方面をおびやかしてきたために手間取り、出遅れたことを悔しがった。
秀吉は小牧山から二十余町はだたる楽田の地に本営を設け、付近につぎつぎと砦を築いて家康に備えた。
2023/06/04
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