~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
家 康 Part-03
秀吉側十万に対し、家康・信雄連合軍は二万に満たなかった。兵力の差から言えば、圧倒的に秀吉側が有利であったが、地の利が家康に味方していた。
互いの戦法の手の内を知りぬいているだけに、相手の出方を見ようとし、結局、小牧山を中心にしてこの後八ヶ月もの間、両軍は睨み合いをつづけることになる。
この間、三好秀次、森長可、池田恒興らによって秀吉側は家康の背後をつく奇襲を試みたが、家康に察知され、逆にほうほうの体で長久手を潰走した。
ただ、秀吉に降伏していた滝川が、九鬼水軍とともに尾張の蟹江かにえ城を海上から襲撃し、これを奪取したことによって家康の心胆を一時寒からしめたが、この事実が最後まで秀吉に知られなかったことろに、滝川の不運があった。
兵の数ではだんぜん有利の秀吉が、家康の巧みな戦法によって戦況は終始押され気味であった。
状況不利の秀吉は、ついに奇策に出た。戦闘原因の信雄自身に対して、直接和睦を持ち込んだのである。
信雄と和議さえすれば、家康のもつ名目が消滅する。
家康にきの秀吉と信雄との会見は、伊勢矢田川原で実現した。秀吉は剣を贈り、終始、辞を低くして信雄を持ちあげた。
このことを或る程度予想していた家康ではあったが、さすがにいい顔はせず、
「あの馬鹿が」
と、当初、信雄に対してののしる言葉をはき捨ててはいた。しかし、その家康自身も戦はこのあたりが潮時であろうとは思っていた。
戦う大尉名分がなくなった家康は、講和成立の五日後には、あっさりと三河に兵を返していた。
この和睦にあわてたのは、義昭と越中の佐々成政であった。家康が手を引けば、成政は越中で孤立する。家康説得に成政は自ら雪の富山を発し、厳寒の飛騨山脈を越えて浜松にたどりついたが、家康を再び立ち上がらせることは出来なかった。
そして、この時点で、鞆の地の義昭の最後の野望も完全に消滅したということになる。
この秋に、秀吉から義昭に対して帰洛を認めてもよいようなことを言って来ていた。それは秀吉の義昭に対する彼一流の懐柔策ではあったが、当時、家康有利の状況下にあって、義昭はこの秀吉からの申し出に気は良くしたものの無視し、本気で家康が勝利を納め、彼の手によって帰洛が実現するものと確信していた。
そのことは肥前の龍造寺に帰洛協力の要請をしたり、豊後の大友を討てば、島津を九州の太守に任ずるなどといった強気の内書を発していたことでも明らかであった。
義昭にとっての青天の霹靂へきれきともいうべき和睦の成立は、彼をしてかってないほどに落ち込ませた。この数日で髪に白いものをめだたせ、食もすすまず憔悴しきった状態となっていた。かつての義昭ならば、女の体で狂ったように気を紛らわせ、再びしぶとく気力をよみがえらせるところであったが、もはや五十近くになった年のせいででもあろうか、ただただ、溜め息ばかりの毎日を送り、春日の局のいたわりの言葉に対しても素直に頷くようにもなっていた。
明けて天正十三年、秀吉は家康と正式に講和するや、ただちに前年義昭の策謀に乗り背後を脅かして来た根来や雑賀を徹底的に叩くべく、十万とう大軍をくりだし、これを三日間で討伐してのけた。
勢いに乗る秀吉は、同じく家康に味方した四国の長宗我部を討つべく、まず弟の秀長に出馬を命じ、毛利に対しても出陣を要請してきた。
もはや秀吉に逆らう不利を承知の毛利は、一族協議のうえで出兵を決意し、吉川元春、小早川隆景らは伊予方面から四国へ上陸した。
すでにほぼ四国全土を掌中に納めていた長宗我部ちょうそがべ元親もとちかではあったが、伊予方面からの毛利勢三万、阿波方面よりの秀長、秀次六万、讃岐方面からの宇喜多、蜂須賀、黒田軍二万三千で三方より攻め込まれて、金子城・高尾城・木津城と次々と頼みの城を落とされて、ついに本拠阿波白地城に迫られて和を請うにいたった。
秀吉は寛大さを見せて、長宗我部に対しその本国であった土佐一国だけは所領を認め、四国平定を完了した。
2023/06/05
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