~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
家 康 Part-05
「この一件だけは、なんとしても承知するわけにはまいらぬ」
義昭は藤長だけではなく、家臣一同を集めた前で、己の決意を熟慮したうででとして打ち明けた。
「このたびは、余の最後ともいえる戦いである。
義昭はいつになく、きっぱりとした言葉で話しだしていた。
いまここで秀吉を恐れ、その意に屈すれば、鞆の地にまで流れ来り、皆と共に戦い抜いて来たこれまでの苦労がいったい何であったのかということになる。秀吉を猶子にすることは簡単である。しかし、そのあとには当然征夷大将軍という位をも譲らなければならなくなることは必至である。そうなればその時点で、義昭は将軍として永久に都に帰れなくなってしまうではないかと言った。
「帰洛は余の夢である。その夢を捨ててまで秀吉に屈することは、余には出来ぬことぞ」
この言葉に藤長は目が覚める思いをした。出奔のすえに、またもや義昭のもとに帰り仕えることになっている自分。それはやはり男に対しての魅力に魅かれてのことであったが、その魅力の実態がこれまではっきりと頭でわかってはいなかった。それがようやくこの義昭の言葉で認識されはじめた。それは藤長はむろん信長や秀吉にもない貴種の誇りをもつ男としての魅了であり、最後の最後までけっしてその誇りを傷つけることなく持ちつづけようとする姿勢にあった。そしてその精神は義昭の場合、強靭ともいえしぶさともいえるものとなっている。
藤長は義昭のやや身をしらせた肩衣の胸に染められた大きな桐の紋様を、久方ぶりに見つめてあらてめてそう思っていた。
この足利の桐の紋とともに、藤長も永き流浪に堪え忍んできたといえた。それを放棄するということは、義昭の言う通り、己のこれまでの生き方をも放棄するに通じていた。
藤長は傍らの昭光に視線を移し、義昭の意向を伝えるべく座を立った。
義昭拒否の答弁と、贈り物の巨額の金子までをも持ち帰って来た使者たちは、秀吉が烈火のごとく怒りだすかと思ったが、以外にも秀吉は、
「うむっ」
と、うなったきり、しばらくは宙を睨んで放心し、やがてガックリと肩を落としてつぶやくように言っていた。
「さすがは、落ちぶれたとはいえ、義昭ではあったのう」
秀吉の急に元気をなくし、しょげかえった様は、絶大な権力を握る男とは思われぬほどであり、なさけない表情がありありとその猿面にあらわれていた。
「源氏」をあっさりとあきらめた秀吉が、次に目をつけたのが「藤原」の姓である。
ときあたかも藤原五摂家筆頭の近衛前久さきひさが、関白太政大臣をやめ、同家の二条昭実あきざねと前久の子がその空席をめぐって争いをはじめていた頃にあたる。
この間隙をぬって以前から秀吉とは親交のあった菊亭春季きくていはるすえが、秀吉の歓心を買うべく暗躍し、説得と半ば脅しで前久を納得させて、秀吉を前久の猶子とさせたうえで関白職を譲らせることに成功した。
秀吉が正式に関白に任官したのは、七月十一日のことであり、儀式は、御所の南殿において厳かに行われた。
これによって秀吉は、官位においては三河守にすぎない家康を、はるかにしのぐ高位につきえたことになっていた。
2023/06/08
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