~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
野望の終焉 Part-02
秀吉が九州平定に向っていよいよ動きだしたのは、翌天正十四年四月であった。
かつて九州の地は、ながく大友、菊池、竜造寺の三氏によってその武威がふるわれたところであった。その後、菊池が滅び、替わって薩摩の島津氏が台頭した。島津の勢いは留まるところを知らず、大友領を侵食するとともに、竜造寺をほぼ滅亡させ、残る大友に攻撃を加えて、今や九州全土を統一する勢いを示していた。
日々劣勢の大友は、関白となって和睦勧告を発して来た秀吉の力を頼ろうと考え、宗麟自らが大阪城に出向いて島津の軍事行動を訴えた。
これを受けた秀吉は、先発隊としてまず毛利に島津討伐の出陣令を発した。
その噂を耳にした鞆の地の義昭は、小早川隆景に出陣見舞いとして内書の添えて帷子を贈った。
つい先頃まで義昭は、島津に対して上洛復帰の諸費用を求めたりもして来ていた。しかし、現状は上洛費用どころではなく、生活に困ろうありさまとなりはてていた。その費用の調達を、秀吉の大軍を目前にしている今の島津にねだるには、さすがの義昭でも気がひけた。
この夏、義昭は秀吉から生糸きいとを贈られている。もはや義昭はそれを突き返すどころか、礼状さえ秀吉に出してもいた。といって、帷子の件を見事に蹴った秀吉に対して、こちらから金品を求めるにははばかる気持があった。
やはり、実質的に頼れるのは小早川隆景ら毛利一族ということになる。
義昭は出陣の苦労を見舞って文のあとに、前年、隆景が秀吉から貰った伊予の地で、若干の所領を己に譲り渡すことを秀吉に申入れてほしいと追記した。
小早川隆景ら毛利軍団が出陣したのは、その文が届いた五日後の十六日である。
義昭は薩摩の島津に対して、毛利が九州北端の豊前ぶぜんに上陸することを報せるとともに、早く秀吉と講和することを勧めていた。
どう贔屓目にみても、島津に勝目があるとは思われない。九州最南端の島津が、中央の情勢に疎いことが想像された。わずか二、三年で秀吉の実力はその何倍かに変化して来ている。これまでの島津から受けた援助に報いてやるためにも、島津の滅亡だけは救わねばならなぬと義昭は考えていた。将軍としての権威が、まだまだ自分には残っていると義昭は信じている。そうであればこそ秀吉からは、その後も贈り物が届けられていると解釈する。
この事を考えれば、秀吉と島津の仲を斡旋できるのは自分以外にはないと、義昭は鞆の地でふたたび島津宛てに筆をとった。
吉川元春が、小倉の陣中で病没したのは、十一月十五日であった。
皮膚病に感染したことが、直接の原因であったという。弟の隆景の柔軟な性格とは違って、元春は最後まで秀吉の下風に立つことを潔しとしない硬骨漢であり、柴田勝家と秀吉の対立時には、義昭同様、柴田側を応援して来たものである。また、そんな義昭に対して、帰洛や鞆での費用についてなにくれと深い配慮もしてくれたことを今更ながらに義昭は思い出した。時世とはいえ、毛利のために曲げて己を九州の地にまで運び、あっけなくもそこで不帰となったことに義昭は哀れを感じた。
元春の死を知った一日、義昭は数珠を手から離さず、元春の霊やすかれとひたすら祈りつづけていた。
内書だけでは気が済まず、義昭は薩摩に向けて藤長を旅立たせた。島津義久に、直接藤長の口から早く秀吉と講和するようにと説得させるためであった。
義昭は秀吉に対しても、必ず島津を説き伏せるつもりだと連絡し、講和について秀吉の了解を取り付けていた。
しかし島津は、逆に緒戦において豊後に出陣して来た四国勢にはなばなしい勝利を納める結果となり、「秀吉軍なにするものぞ」と義昭の意見を聞くどころか、ますます息が荒くなるという状態となってしまっていた。
2023/06/10
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