~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
さらなる生き方焉 Part-01
義昭と秀吉は初対面ではない。信長に追われ、河内若江から堺に留まっていた時に、義昭は秀吉に会っている。しかし、その時は、秀吉は信長のたんなる武将の一人としてであり、義昭は公方としてのはるかな高い立場を誇っていた。が、これから会わねばならない秀吉は、関白太政大臣という将軍よりも上位の天下人であり、当時とは立場がまったく逆転していた。
そのことにこだわる気持を義昭は、捨てねばならぬことはわかっていた。
これまで義昭はなだ誰にも頭を下げたことはなかったし、下げる立場でもなかった。それをこれからしつづけねばならぬ悔しさが、無いと言えば嘘になる。また、そうする自分が哀れともいえた。だが、こののち生きてゆくためには、現状の立場に立たねばならにことぐらいはわかりきっていた。帰洛は出来たが、現実の将軍としてではない。しかし、それも止むを得なかったということであった。かなわぬ夢であるならば、いつかそれを捨て去らねばならない時が来る。
義昭は己の気持を、出家という形によって切り替えようとしていた。
号を昌山しょうざん、法名を道休どうきゅうと名乗って義昭はついに出家をした。野望に生きた旅路の末に、ようやくやすらぎを得ようとする心境となった義昭の法名としては、それなりにふさわしいものといえた。しかし、寺に身を置く気のない義昭は、頭髪までは剃らなかった。
将軍ではないにしても、自分が生きてさえいるかぎり、足利としての源氏の嫡流は健在と言えば言えた。
翌天正十六年、義昭は秀吉の大阪城へ出向いた。
「よくぞ参られたの。昌山殿」
秀吉は一段高い所から敏明を見下し、鷹揚なる言葉をかけてきた。
義昭は一瞬秀吉を真正面から睨みつけたが、やがて徐々にではあったが頭を低くし、ついには平伏の姿勢をとっていた。
この瞬間に、足利の室町幕府は完全に消滅した。
「こののちは、心やすらかに都で暮らされよ」
秀吉はこの慰めともとれる言葉とともに、かねて義昭が小早川隆景に依頼していた伊予での地で、一万石を捨扶持として与え、大阪城内に公宅を持つことも許していた。この日、義昭は秀吉とともに参内し、准三宮じゅんさんぐうの位をも与えられた。
この年の四月、秀吉は聚楽第に後陽成ごようぜい天皇の行幸を仰いだ。
家康を筆頭に諸大名たちが京に招集させられ、当日は天皇を御所から迎えて供奉する盛儀に参列させられていた。しかし、秀吉の真の狙いは翌日にある。諸大名たちに、己に対する忠誠を誓う誓詞を書きださせることであった。
このいずれの行事にも、昌山の姿は見られない。
秀吉にとっての昌山はすでに毒にも牙もない存在ということであった。翌々日の和歌の会において、はじめて昌山はこの一連の行事の中に参加を許され、一首を詠んだ。その歌の署名に昌山は、「沙門道休しゃもんどうきゅう」という世を捨てた名を初めて書いていた。
昌山は翌閏五月、遅ればせながら小早川隆景に対して、備後在国中での様々に世話になったことを感謝する文を書き送ったが、形式は依然として将軍からの内書の形をとっていた。将軍ではなくなったにしても、隆景ならば憚ることなく以前のままにふるまえられるという気持の甘えが、このことによってまだあらわれていた。
隆景からは返信として、七月には輝元と共に秀吉のもとへ上洛をする予定であることを報せて来た。
その報せの通りに、毛利の船は十九日に大坂に到着した。昌山は、金の屏風一双・樽物二十荷・肴十折・帷子などを輝元らに贈るため、槙木嶋昭光を先発させた。
輝元。隆景、そして元春亡き後の吉川家を継いだ広家ら毛利一族は、一ヶ月ほどを大坂に滞在し、秀吉の主催する公式行事に参加する予定であった。この間、昌山は隆景に会ってはいたが、ろくろく話をする機会には恵まれない。すべての行事を終えた輝元らが、あらためて帰国の挨拶を述べるために聚楽第に秀吉を尋ねたのは、八月も末のことであった。
月が変わっていよいよ帰国の準備を始めた頃、輝元らは昌山と共に、宇喜多秀家の招待を朝から受けることになっていた。
2023/06/12
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