~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
さらなる生き方焉 Part-03
「思えば元春は、荷に時を得たのかも知れぬ。最後まで元春は秀吉に屈することを潔しとせずにいたからのう」
そんな元春の生き方をうらやましいと昌山はいう。それは誰しもが思う同じ心ではあった。隆景も輝元もこののち秀吉の顔色を伺いながら、毛利の家をまもり抜かねばならぬ責務をもっていた。
そのためには強い権力にはなびかねばならぬ時も必要であり、耐えねばならぬことででもあった。
「兄者の性格では、それは死よりも苦痛ではござろうて」
沈みきった座を再びもとに戻すかのように、隆景が冗談めかしてそう言った。
「生き抜くことはひと苦労でござる。しかし、己の力をつくして生き抜くことこそが尊いものでござりまするでな」
恵瓊が言った。死を恐れることは仏の道に反するものではあるが、死を迎えるまではひたすら心をつくして生きることこそが大切であると、さらに恵瓊がつづける。
「これは抹香臭い話になったものでござる」
苦笑をうかべて藤孝が口をはさんだ。
この言葉に輝元と隆景は、あらてめて一座をみわたすようにし、
「この場に坊主が三人もいれば、いたしかたがござりませぬな」
隆景が言い、輝元ももっともらしく微笑を浮かべて頷いていた。恵瓊は当然として、昌山は出家、そして細川は幽斎と号してすでに頭を丸めている。場のうち三人までが坊主と言えば言えた。
「そうであったな、余も出家をしたことではあり、坊主と同じじゃ」
座は昌山のこの言葉でドッと笑い声に満ちていた。
昌山は、目の前の頭を丸めた幽斎には複雑な思いをつのらせずにはいられない。
思えば幽斎とは、昌山がまだ覚慶と号し興福寺一乗院の門跡であった頃からのつき合いであった。
松永久秀の反逆によって暗殺されそうになったところを救出してくれたのが、ほかならぬこの藤孝と当時は名乗っていた幽斎である。僧から還俗して将軍として義昭を名乗った我が身を守り、室町幕府再興にそれ以後は共に苦難の道を歩んで来たと言える。和田から矢島、さらに流れて朝倉に身を寄せた日々。そして明智光秀を通じての信長への接近。
しかし、藤孝はその信長に接したことによって、やがて義昭を見限り、信長の下で大名にまでなりあがることとなった。最後まで信長と戦いつづけた義昭と、立場を逆にした藤孝。
その信長も、殺した光秀も今は亡く、二十年という年月の思い出だけを今二人は共有して語り合っているという人生の不思議さ。それもまた考えようによっては嬉しいことでもあった

「生き抜くことは難しい。しかし、生きていればこそ信長には余は負けなんだと思うている」
負け惜しみではなかった。
顧みて己の生き方に昌山は悔いはないと思っている。この後も生き抜いて天下の行く末を見定めてみるのも、また一興と思えた。
一夜を思い出に語りあかした輝元、隆景一行らは、その月の半ばに大坂を離れ帰国した。
動乱の世を厳しくも生き抜いて来た昌山という貴種に、はからずもかかわりを持ったとはいえ、毛利としては今では深い同情を昌山に寄せてもいた。
翌天正十七年五月に、毛利元照輝元の名によって、鹿苑院承兌ろくおんいんしょうたいに非命に倒れた昌山の兄の二十五回忌の法要を営ませたこともその好意のあらわれであった。
昌山はこのことの礼状を輝元に送り、元春亡き後を継いでいる吉川広家にも、あらためて在国中での世話になったことに対して礼状を送っていた。
この頃、昌山は大坂の公邸から、山城の槙島に屋敷を設けて身を落ち着けていた。槙島城砦はすでに信長との戦いの中で焼失していたが、その麓に秀吉の援助で屋敷をもつことが出来ていた。
この地はもともと近臣の槙木嶋照光の領有したところであり、信長に対し最後とも言える戦いを行ったのもこの城に篭ってのことであった。また、流浪の旅が始められたのもこの城からである。
いま、城砦は石垣にみの跡を残すだけとはいえ、昌山はひたたびその同じ地に帰って来ていた。
昌山とわずかな家臣たちは、かつての城砦後に佇み、眼下に流れる宇治の川面に眼を落としては、深い感慨に浸りきった。川から吹く風と宇治の流れは、あの頃と少しも変わらぬものであった。
2023/06/13
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