~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
さらなる生き方焉 Part-04
秀吉の天下は盤石の度を加えつつあった。
諸国に検知を実行させ、農民からは武具をとりあげた。
いわゆる検地と刀狩りである。さらに、諸大名に対しては妻子を京に置くことを命じていた。
小田原の北条を滅亡させたのは、天正十八年の七月である。難攻不落といわれたこの城を、秀吉は三ヶ月の包囲の末に陥落させていた。
この戦陣に小早川隆景も従軍を命じられていた。長びく滞陣に将士の間に倦怠感けんたいかんを発生させぬようにと、陣中に慰安を取り入れることを秀吉にすすめたのは、ほかならぬ隆景であった。
隆景のこの進言によって秀吉は、京・堺などからの商人や遊女の出入りを自由にし、諸大名たちにはその女房などを呼ばせるとともに自らも愛妾淀殿を招いていた。
奇策ともいえるこの滞陣方法は、包囲側をさらに活気づかせ、逆に北条側をいよいよ歯軋りさせていった。また、陣中では茶の湯の会が頻繁に行われ、隆景がわざわざ備後から持参して来た畳が秀吉を喜ばせていた。
備後の「まくり畳」は、藺草いぐさを干すときに工夫があり、諸大名たちに珍重された。
まるで物見遊山であるかのような余裕ある包囲陣に対して、北条側は物量的・精神的に疲れ果て、初代早雲そううんから数えて百年、関東に君臨し覇権を誇って来た政権の座をついに放棄して秀吉に降伏した。
昌山はこの間、陣中の隆景に何度となく慰労の文を送っていた。
伊達ら奥羽を平定した秀吉が、京に凱旋して来たのは九月の一日であり、事実上、ここに日本全土は秀吉によって統一されたこととなった。
2023/06/13
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