~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-01
古来より本朝ほんちょう(日本)から(明国)天竺てんじく(印度)を含めて三国といい、日本人の知る世界観はこの三国に尽きていて、三国を制覇することは世界を制覇することともいえた。
秀吉がこのとてつもない夢を現実に脳裏に描きだしたのは、島津を降伏させ、筑前筥崎はこざきに凱旋したあたりであったろうか。
すでにして信長にもその狂気とも、壮大ともいえる考えの兆しはあった。それを秀吉は本気でやろうとしたまでである。遠き昔、国が日本に攻め寄せて来た時代があったという。それならば、逆に大陸に向けて日本が兵を進めることもまた可能であるという秀吉の考え方であった。
玄海の海を越えれば、朝鮮国である。
眼前の海を目にした秀吉の胸に、メラメラと三国制覇の野望の火が燃え出していた。
その第一歩として秀吉は、博多の町に注目した。そこを海外への攻略拠点とするべく町の再興に向けて力を入れた。さらに、対馬の宋氏に対しては、朝鮮国の来朝を促せという命令を発していた。
関白職を甥の秀次に譲った秀吉が、自らは太閤と称し、いよいよ大陸に向けて本格的に動きだしたのは、天正が文禄ぶんろくと改称されてからのことである。
対馬という国は、古来より朝鮮・日本の両政権の狭間の中で生きて来た国であり、たえず両政権の顔色を眺めながらその中で身を泳がせねば生きて来れなかった位置にあった。
日本の交易はこれまで、朝鮮国への入貢という形式を踏んで行われて来ていた。当然、朝鮮国では日本を自国より一段低い地位にある国として眺めて来た歴史があった。
そういった認識のある国に対して、秀吉の一方的ともいえる来朝要請を取り次ぐことを命じられて困り果ててしまったのは宋氏であった。悩みに悩んだ末に宋氏は、朝鮮国に対して交易復活の通信使の派遣を依頼するという名目を立て、とりあえずの成功をみた。
これに気を良くした秀吉は、帰国の使節団に国書を与えることとなったが、この文面を見て使節団は、驚き且つ怒った。すなわち、秀吉が大陸に攻め入るための道案内をせよということが書かれていた。
秀吉の国書を朝鮮国はこれを無視したものの、国防に大わらわとなっていた。久しく戦乱がなく、太平に慣れ切っていた朝鮮国は軍事力は劣弱といえた。
一方、いつまで待っても返書の来ぬ朝鮮国に、秀吉はいらだち、ならば朝鮮をまず攻略すべしと腹を固めた。
肥前西松浦郡名護屋なごや村の地に、秀吉は五層七階の巨城を全国の諸大名に命じて半年余りで築き上げた。
城は九州の最北端の半島に位置し、玄界灘を臨んで聳え立った。前方の加部かべ島によって玄海の荒波は緩和され、深く斬り込まれた入江は港としても適していた。
この名護屋の巨城に遠征軍の集結を命じたのが、文禄元年正月五日のことであった。
そして自らも総大将として、京の聚楽第を出発したのが、三月二十六日である。
この出陣の行軍の中に昌山が居た。
当日は蒸せかえるほどの陽気となり、うららかな青空の下を全軍は天皇・親王・公卿衆などの盛大な見送りを受けてきらびやかに進軍した。
2023/06/14
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