~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-02
第一陣は小早川隆景がつとめ、そして、第二陣三千五百人の将をつとめているのが他ならぬ昌山その人であった。
昌山は大陸出兵の噂を耳にしたのは、昨年の九月であった。かねて見知りの鹿苑院の僧が、大坂からの帰路、思いがけなくも宇治の槙島に立ち寄り、よもやま話の中で昌山にその話をした。
「それはそれは国をあげての大戦でごじゃりますそうな。なにしろ、大陸を相手にするなどとは、この国始まって以来の出来事。院の門跡承兌しょうたい様までが通事としてその出兵に従軍することを命ぜられましてな」
その後につづけそうになった「困ったものだ」という言葉を、この僧は半ばまで口にし、あわててその手のひらで己の口をふさいでいた。秀吉の政策を非難したとしたら、あとでどんな災難が降りかかって来るかと心配したのであろう。
「御坊、それはまことなるか」
それまで眠たげに耳を貸していただけの昌山が、この時思わず身を乗り出して興味をしめしていた。
「嘘いつわりどころか、備前の名護屋において、このために大きな城が築かれているとのことでごじゃりまする」
「うむ」
と、ここまで聞いた昌山は、我を忘れるほどに興奮していたといえる。秀吉と言う男はなんという馬鹿げたことを考えるものかと思うと同時に、発想の稀有けう壮大そうだいさに目を開かされる思いを持つにいたっていた。
「将軍位など、いつまでもこだわること自体、話が小さい」
そういった秀吉の大口たたいて叫ぶ声が、耳もとで聞こえるような気がした。
それはまた昌山にとって秀吉の声というよりも、己の心の底からの声でもあった。
過去は過去として今を生きねばならぬと心に決めた昌山ではあったが、心の隅にはどうしてもいまだに秀吉にひっかかるものを捨て切れずにいる。そんな日本国での地位や身分を吹き飛ばすかのような大陸を相手の戦話に、昌山はこの時初めてさらなる生き方のあることを発見したような気がした。
そう考えると秀吉と言う男は、愉快とも滑稽とも思え、これまで抱いてきた秀吉に対するこだわりさえもが、このことでなぜか徐々に己の中から消えつつあるのを感じていた。
その夜、昌山は藤長、昭光、秀政や春日の局を前にして、大陸出兵に供奉ぐぶするつもりであるといって皆をあきれさせていた。
昌山は隆景に宛てて、秀吉の出陣に際して自らも供奉出来るように取り計らってくれと書き送った。
隆景は思わぬ昌山の申し出に苦笑を浮かべはしたが、すぐさま秀吉に意向を尋ねる文を送った。
「なんと、昌山が我が出陣に供奉をするとかや。これは愉快じゃ。前将軍自らの出陣ともあれば、いよいよ大陸出兵に箔が付くというものぞ」
隆景からの書状に、秀吉は満面の笑みをみせ、側近の石田三成にもらしたこの言葉によって、昌山の名護屋出陣が決定したのである。
2023/06/15
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