~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-03
当日、昌山は朝早くから鹿苑院の一室で、藤長、昭光らに手伝わせ、僧衣から具足ぐそく甲冑に着替え、
「どうじゃ」
といっては、春日の局に見せつけていた。
昌山の武将姿は、二十年ぶりのものであった。
信長に敗北し、以後の流浪のなかで甲冑に身を固めたことは一度とてない。昌山の戦いはもっぱら筆一本を武器にしたものであった。
「似合うであろうがの。惚れなおしたであろうぞ」
などと春日の局におくめんもなく言ってのけ、側近たちを笑わせるはしゃぎようを見せたいた。
名護屋城に秀吉が到着したのは、四月の二十五日である。昌山は、城の外廓に着陣した。
大陸遠征に動員された兵は、陸海あわえておよそ三十万といわれている。日本の諸大名のほとんどが、この名護屋城を中心とした小さな半島に結集を命じられていた。
遠征部隊は一番から十六番に分けられ、ほかに二隊を予備としていた。
一番隊から三番隊までの九州勢らは、小西行長、宗義智、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政らであり、およそ三万三千人はすでにこの時、壱岐・対馬から朝鮮半島をめざしていた。水軍の中核は九鬼嘉隆が率いる日本丸であった。
対馬の大浦から朝鮮の釜山浦まではわずか五十キロ。
天気の良い時には、その陸影もかうsかに望まれると言われる。
秀吉が名護屋城に到着したこの時、これら先発部隊はすでに釜山浦ふざんほ安骨浦あんこつほに上陸し、ともに快進撃をはじめていた。
やがて連戦連勝の戦況報告が、名護屋滞陣の秀吉のもとに伝達されて来た。それによると、早くも日本側は朝鮮国の首都京城けいじょうを陥落させたという。
秀吉の得意や思うべし。もはや明国までおをもとったるかのような気分の秀吉は、全文二十五ヶ条の大陸占領計画なるものを、京を留守する関白秀次にまで書き送っていた。
それによると、天皇を明の都北京に迎えて、秀次を明国関白にする。日本の関白および肥前名護屋の主を誰にするかはまだ決めかねているが、羽柴秀勝ひでかつ秀保ひでやす、あるいは宇喜多秀家の身内を適当とし、留守居役の候補には足利昌山に名をあげていた。
そして秀吉自身は寧波ニンポーに居を定め、天竺にまで打ち入るつもりであると書いてなる。
しかし、この秀吉のようほうもない夢のふくらみも、朝鮮水軍を率いる李舜臣イースンシンjの出現によってまたたくうちに頓挫した。
明という大国を相手にすれば、豊臣政権などひとたまりもないという不安を抱く石田、小西、宗らの思惑をよそに、鉄砲と言う武器に匹敵する火器のない朝鮮国を相手にした日本側は、当初無人の野を行くがごとく朝鮮国の内陸部へと侵入していった。が、その勢いに乗る陸上軍も、九鬼嘉隆ら率いる日本水軍によって食糧弾薬等の補給を受けなけれな進むことは出来ないという弱点を持っていた。
慣れぬ海域と複雑に入り込む海岸、無数に点在する島々、さらには李舜臣の奇策につぐ奇策によって日本側水軍はさんざんに翻弄されつづけ、ついには完全に制海権を喪失した。
補給の途切れた陸上軍は、やむなく侵略した土地で略奪を開始したが、ために朝鮮人民の激しい恨みを買い、ついには朝鮮人民の蜂起をうながす結果となって、苦しい戦いとなりはじめていた。
2023/06/16
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