~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-04
六番隊を率いた隆景と七番隊を率いた輝元。広家らが釜山に上陸したのは、昌山が名護屋に着陣した日よりも先立つ四月十九日であった。ために昌山は彼らを見送ることはかなわなかったが、日々、昌山は彼らの無事を念じていた。その頃、輝元は体調を崩して慶尚北道けいしょうほくどうで滞陣し、隆景は黒田孝高とともに、さらに全羅道ぜんらどうに軍を進めつつあった。
秀吉は実母の大政所危篤のため、いったんは京へ帰りはしたが、十月にはふったび名護屋の地に戻って、予断を許せぬこととなってきた戦況にいらだちをつのらせていた。
が、秀吉の思惑をはるかに越えて、現地の渡海軍は苦しい戦いに疲れ切っていた。郭再祐カクサイユウらの率いる抗日義兵の出現に悩まされ、飢えと寒さにふるえながら、もはや侵略どころか、確保した地点を守ることさえも汲々というありさまとなり果ててしまったいた。
さらに、翌文禄二年正月、李如松リジョウショウ率いる明の大軍が突如南下し、平壌へいじょうの小西行長を包囲しようとした。
大軍の南下に、かろうじて小西軍はその包囲から脱しはしたものの、反撃する力はすでになく、平壌を捨て、氷結の大同江テードンガンを渡ってひたすら敗走した。寒気は外装する兵の肌を刺し、手や足をしびれさせ、路傍に倒れる者が続出した。彼らが開城からさらに京城へと到着した時には幽鬼のような姿であったという。
勝ちに乗じた明の李如松はさらに南下をつづけ、臨津河イムジンガンを渡河して日本軍に迫った。最大の危機を迎えた日本側は京城と平壌間の軍団を小早川隆景のもとに結集させ、激しい戦闘の末にようやく明軍を撃退させることに成功した。この時明軍も日本勢と同様、遠い本国からの物資の補給に悩んでいた。文禄年間の朝鮮は日本の侵略もさることながら、天候の不順がつづいた年でもある。かつて味わったことのない飢饉が全土をおおっていた。そんな地に攻め入った日本兵も、援軍として駈けつけて来た明兵もたまったものではなかった。飢えと寒気で両軍の士気は完全に萎えていた。
ここに戦況は膠着状態となり、ひとまず明との間で講和と言う話が持ち上がって、明使が名護屋の秀吉のもとに派遣されて来たのが五月の中頃であった。
昌山は隆景に書を送り、みごとな采配によって明軍を敗退させたことを絶賛し、朝鮮在陣の辛苦を慰める言葉をならべていた。
昌山より四つ上の隆景はすでに六十を越える年となっている。在朝鮮諸将のなかでは長老とも言える年令であり。その肉体的疲労が思いやられた。
口には出さなかったが、事実隆景は、この頃から身体の気怠さを感じるようになっていて、己自身の老いををも自覚していた。
在朝鮮諸将の交替を命じた秀吉自身は、早々と八月には大坂に帰っていた。先に鶴松を亡くした秀吉ではあったが、その同じ愛妾淀の方の腹が臨月近くになっていたためであった。徳川家康も関東へ去り、昌山も宇治の槙島に帰るべく名護屋の地を離れた。
隆景は閏九月二十一日になってようやく帰国した。しかし、隆景の身体はこの時すでにボロボロになるほどに傷んでいて、帰国と同時に病の床についてしまった。
昌山は隆景に見舞いの書状を送ってその病状を気遣った。
秀吉が大阪城をひろい(後の秀頼)に与え、己は伏見に城を築いて移り住むと公表したのは、文禄三年正月のことである。このことはまだ口もきけぬ幼児事実上の己の後継者に定めたも同然と言えた。すでに秀吉の後継者としては、先に甥の秀次が定められている。秀次とそれをとりまく者たちにとって、このことは決して面白い筈がない。感情のおもむくままに天下の事を定めて行く秀吉に、人々の心は激しく揺れ動きはじめていた。
明国との正式の講和は難航した。明の皇帝も秀吉も共に相手が屈したものと考えている。
もともと明は、古来より小さな日本国を朝鮮国よりはまだ一段と低い地位にある国とみなしている。秀吉との認識には大きなズレがあっても当然よ言えた。
2023/06/18
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