~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-05
明使が北京を発ったのは、文禄四年一月である。
この停戦状態の最中、秀吉の天下は大きく内部から揺れ動きだしていた。
秀吉子飼いの石田、増田らを中心とする官僚派と、家康、前田らに代表されるこれまでの織田軍団を支えて来た武断派の対立であった。
武断派と官僚派が、その気質、考えた方が根本的に相手と違っているのは当り前である。
天下が平穏になれば、官僚の力が要求されるのは自然のなりゆきでもあった。しかし、家康ら武断派の力は、まだまだ大きな存在であって、両者の溝は深まるばかりであった。
秀次に謀反の噂が流れたのもその頃である。
やがて秀次は捕縛され、秀吉はいったん蟄居を命じた後、さらに切腹を命じていた。
文禄が慶長と改元されたその年、秀吉は家康を内大臣に推していた。豊臣政権下で家康の存在は大きい。しかし、唯々諾々と己の下風に立っているこの男を秀吉は厚く遇することによって恩を売り、衝突を避けて己の天下を守り抜こうとしていた。
この年は記録によると畿内で大地震が頻繁に起こっている。とくに七月の大地震によって伏見城もかなりの被害を受け、昌山も秀吉のもとに見舞いの使者を送っていた。
明使が日本船で千島・壱岐・名護屋を経て堺に到着したのはその十日ばかり前であったが、地震のために秀吉との会見は大幅に延期され、ようやく九月になって大阪城本丸において会見は実現した。
しかし、、明使の携えて来た国書が、秀吉の思惑とはあまりにもかけ違った。いってみれば秀吉を日本国の王としてあらてめて中国は認めてやるというただそれだけの内容であったがために、秀吉は激怒し、ふたたび朝鮮への出兵を決意するに至っていた。
が、このことはあまりにも現実を無視した、狂気じみた秀吉の行動とさえいえた。もはや、諸大名たちは何の益もなかった渡海の遠征に疲れ切り、「またか」といったうんざありした気持で再度の命令を受けていたのである。
人心は秀吉から離れつつあり、武断派と官僚派の溝もさらに深まっていった。
世情のそんな空気をよそに、昌山のみは秀吉を違った目でみつめていた。
「人間というものはやるところまでやらねば納まらぬものよ。秀吉とても、もはや唐・天竺までもとは思うてもおるまい。このたびの出兵は意地と面子があるのみとはいえ、あの男ならば行くつく所まで行かねば気がすむまい。その結果がどうなろうとものう」
藤長や昭光たちを前にして、そう言った昌山の言葉は、かつての己の生き方でもあったと言えた。
信長と対立し、信長死して後も最後の最後まで室町幕府再興の夢を追いつづけ、長い流浪の果てで結局得たものは何もなかった。それはそれで良いとする昌山のたどりえた境地が吐かしめた言葉でもあった。
今の昌山に昔日の野望はかけらも残っていなかった。
秀吉から与えられていた大坂の屋敷、まったくいといっていいほどに昌山は行かず、ほとんど人も寄り付かない槙島の地で直臣たちと暮らしていた。
長い流浪の年月を苦労を共にして来た者たちと、春日の局に仕えれれているだけで昌山は充分満ち足りていることを感じていた。
日々生きて行くことの楽しさというものを、昌山は六十になってはじめて知り得たと思っていた。
諸大名たちとの交流も今はまったくなく、大坂の屋敷とは比べものにならぬほどの粗末な造りの槙島の屋鋪はひっそりといつも静かであった。しかし、そこから洩れる主従の笑い声は、おだやかな日々の生活なればこそでもあった。昌山が筆を手にすることも今やほとんどなく、たまに文を送ることといえば隆景の身を気遣う見舞いの手紙のみであった。
その隆景はもはや立ち直ることは不可能かと思われた。哀れではあったが年が年である。そしてその隆景の身を気遣う己自身も又、老いを感じる年でもあった。
2023/06/18
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