~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 動 乱 』 ==
著 者:辻 尾  耕 平
発 行 所:新 風 舎
 
 
 
 
 
文禄・慶長の役 Part-06
わずかな供を従えた若い僧侶が、めったに訪れる人のない昌山の槙島屋敷の門前で駕篭から降り立ったのは、慶長二年正月の小雪のチラつく昼下がりのことであった。
小者からの連絡で応対にでた藤長に対して、僧の従者は奈良興福寺大乗院門跡の義尋ぎじんであると名乗り、昌山に面会をするために、はるばる奈良から来たものであることを告げた。
奈良興福寺といえばゆかりの寺である。
藤長はすぐに昌山に取り次いだ。
義尋と名乗る若い僧を目の前にして、昌山の驚きと喜びは一通りのものではなかった。まぎれもなく我が子であった。
風のたよりに我が子が興福寺大乗院に入室したことは聞いていたが、その時は確か義尊ぎそんという名であると記憶している。
「このたび門跡となりましたことを期に、名を義尋と改めましてございまする」
「そうであったか」
そう言って昌山は、早くも目をうるませ、義尋の姿に食い入るように瞳を向けた。
はからずも父子対面となったことで動転し、大きな興奮に包まれてきた昌山は、あわただしく藤長や昭光を呼びつけ、
「茶じゃ、菓子じゃ。これなるは我が子ぞ」
と叫んで、義尋をもてなすことに気もそぞろとなっていた。
春日の局や他の側近たちも駈けつけ、父子の対面出来たことを喜びあって、昌山の屋敷はにあわかに賑やかとなった。
「ほんに、目もとが上様にそっくりでございますな」
春日の局のこの言葉に。昌山はわざわざ手鏡を持って来させ、己の間隔の狭まった眉のあたりと、義尋の顔とをしげしげと見比べたりもして、なごやかな笑いの渦をその部屋に溢れさせていた。
二歳の時に乳母とともに信長への人質として岐阜に連れて行かれた記憶は、もちろん義尋にはあるわけはない。
もの心がついた頃にはその乳母も死し、義尋は信長のことで成長していたよいう。敵対した信長ではあったが、信長は昌山の子をそれほど冷遇しなかったようでもあった。残虐とまでに恐れられた信長にも、そういった一面があったことを昌山は素直に喜ばずにはいられなかった。
信長死して後は、秀吉の庇護をうけ、十六才の時に興福寺で得度したという。
「亡き乳母から自分は足利十五代将軍の子であることをたえず聞かされておりましたので、父上様の御名を菊につけ、いつも懐かしい気持を抱いて参りました」
流浪将軍の噂を聞くたびに、まだ見たこともない父を慕ったという義尋の言葉に、昌山はふたたび目に涙をにじませた。
「ほんに不憫な。いかい苦労をなされたことやら」
春日の局も、目頭を袖で押さえ、そういった言葉をかけた。
「いいえ、私の苦労など、父上様の苦労に比べますれば何ほどのこともござりましょうや。むしろ、足利将軍として戦い続けている父上様の子であることに強い誇りを感じて生きてまいりました」
「かようなまでに、余を慕ってくれていたとは知らなかった」
昌山は今更ながらに、血のつながりの不思議さといったものを痛感した。
「私の身体のなかにも、足利の血が流れておりまする。できますものなればこの義尋も還俗し、足利将軍家の流れを継ぎたいものでござりまする」
「ななんと・・・! そう思うてくれるはありがたいが義尋殿、こののちは足利将軍家などに気をとらわれることなく生きる事こそ、そなたにとっては幸福というものじゃ。将軍よ天下よと言ったところで秀吉の天下がいつまで保てるかあやしいかぎりの今日この頃じゃ。秀吉死せば、ふたたび動乱の世となるやもしれぬ。この世はそんな修羅場の繰り返しにすぐぬ、そんな天下にかかわりあうことなく生きる安らぎを、余はこの年になってはじめて知った思いがする。将軍位にこだわりつづけた昌山の苦労をそなたがあえて継ぐこともあるまい」
我が子に己の苦労の道をくりかえさせぬためにも、昌山は今の己の心境を語りかけたつもりではあった。しかし、その悟りきったかのような考えの片隅でまだまだ燻ぶりつづけてやまぬものが決して完全に消滅していないことも近ごろの昌山自身はかすかに感じていた。
「それもまた人間よ」というおだやかな気持で、そんな己自身の内部を、余裕をもって客観的にみつめることの出来る昌山の年でもあった。
将軍位など継ぐことはないという昌山の言葉に、やや不満げな表情を見せた義尋ではあったが、はじめて会った父にいきなり逆らう言葉も口には出来ず、そののちの会話は再び再会の出来た喜びに浸るものとなっていった。
2023/06/19
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