~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅹ』 ~ ~

 
== 『 挽  歌 』 ==
著 者:原 田  康 子
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
第一章 Part-03
繁華街に近い煙草屋で、わたしはバットを一個買った。わたしは一番おいしくないバットで我慢しなければならぬ。お小遣いをいつ貰えるか当てはないのだから。わたしのスラックスのポケットで、十円硬貨が七枚歩くたびに音をたてる。わたしは父のジャンパアから持ち出した百円札で煙草を買ったのだ。
昔はにぎやかであった。高い百貨店の陰の道路に、風船売りや花屋の車がたくさん並んでいた。原色の毒々しい造花、それから本物の百日草、矢車草、矢車草、金仙花きんせんか紫苑しおん雛菊ひなぎく、菊が一番多い。紋付の羽織を着たおばあさんや、子供連れの中年の婦人、古ぼけた背広を着た老人が花を少しずつ求めては、百貨店の前の停留所からバスに乗り込む。
次々に来るバスの車体には行先が書いてあった。・・・臨時、墓地行。
ようやくわたしは思いあたった。お彼岸ひがんなのだ。新しい言葉で言えば秋分の日というのだろう。わたしはまた思い出す。わたしが台所を飛び出した時、コンロの上でことことと音をたてて、白い湯気を吹いていたおなべの中身はきっと小豆なのだろう、と。ばあやはオハギを作るだろう。彼女は決してお彼岸とか、お盆などを忘れないのである。バタを買うお金がなくても、小豆ならばばあやは買うに違いない。そして彼女はあの黴臭かびくさくて陽の当たらぬ奥座敷の途方もない大きな、ひかった金具のいっぱいついた仏壇にオハギや果物を供え、ながいあいだ念仏をとなえる。そこには彼女が愛している、わたしの曾祖父母そうそふぼ、祖父母、そして母の位牌いはいがある。わたしの家で、仏たちに礼をつくすのは、四十年近くもわたしの家にいる他人のばあやだけである。
今日は死者たちのお祭りらしい。しかしそうではなく、秋分の日、ただ秋という季節の祝いの日なのかも知れない。街は賑やかだし、綺麗きれいな服を着た人々が、いっぱい群れているのだから。
わたしはわたしと同じ年頃の娘たちの姿が眼についた。娘たちはワンピースや、秋向きの薄色のコートを着て、赤や緑の紺のくつをはき、ベレやボンネット型の帽子をかむっている。わたしのかむっている帽子は、紺色の登山帽だ。それにわたしは黒のスラックスに、大柄おおがらなチェック模様のブラウスを着て、ズックの靴をはいている。わたしのような恰好の娘はいない。それにわたしは一人だ。わつぃあには連れが居ない。
しかしわたしは一人で歩いていることも、祝日の街に釣合つりあわぬ少々おかしな服装をしていることも、べつにどうということもないのだ。わたしはかえって楽しい。わたしはのびやかに、自由に、ポケットに片手を突っ込んで歩いているのだから、もっとも、わたしはたいていスラックスにブラウスかセーターだし、いいドレスなんて一着も持っていないのだ。
街に人があふれていたが、風もなくおだやかな秋の日和ひよりである。わたしはすこし目を細めて真青にひかった空を見上げた。小さな黄色いゴム風船がひとつ、ゆらゆら空をただよっていた。街の賑わいの中から、飛び立っていった風船だろうか。風船の周囲は街の賑わ下から隔絶された、ひっそりと明るい空の光景を形づくっていた。風船はゆっくり、街の上を流れて行くらしい。わたしは風船を眼で追いつづけ、危うくだれかにぶつかりそうになった。
このとき、わたしの耳にどういうわけか、門を出る時に感じた、あのたくさんの旗のひそかにはためく音が よみがえ ってきた。風船のせいなのだろう。
しかし、わたしはひどくたのしくなってきた。本当に旗が鳴ればよいと考えて。それから空には風船があればよい。空の色と同じ色の数限りない青い風船が。そのときはむろん、街中の音は絶えなければいけない。
わたしは想像した。
街中の音は絶えている。でも商店の 鎧戸 よろいど は全部開き、店先には靴や毛糸やトランク、果物、ドレス、家具、パンなどはいつもよりずっと豊富に商品が並んでいる。明るい、透明な陽が街路にふりそそぎ、その街路には誰も通ってはいない。わたしだけをのぞいて。なぜなら、その日はわたしだけのお祭りだからだ。旗はわたしのためにだけ鳴り、風船はわたしのためにだけ空にあがるのだ。わたしは 雲母 うんも を薄く引きのばしたような、ひかった白い 衣裳 いしょう をまとい、カトレアの花束の中に あご をうずめて、ひっそりとほほえむ。その日わたしは求婚を受けるのだから。ダビデ王の、ソロモン王の、あるいはダリウス一世の求婚を。そしてわたしは愛するだろう。未来も過去も考えず。そのためにわたしの祝日がある。・・・
わたしはまた誰かにぶつかりそうになった。しかし、わたしの眼からたくさんの青い風船が消えはしなかったので、わたしは一人で笑いだした。
2023/06/22
Next