~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
女の夜市 Part-01
新選組局長近藤勇こんどういさみが、副長の土方歳三ひじかたとしぞうとふたりっきりの場所では、
「トシよ」
と呼んだ、という。るか斬らぬかの相談ごとも二人きりの時は、
「あの野郎をどうすべえ」
と、つい、うまれ在所の武州多摩の地言じことば葉が出た。勇は上石原かみいしわら、歳三は石田村の出である。どちらも甲州街道ぞいの在所で、三里と離れていない。初夏になれば、草むらという草むらがまむし臭くなるような農村だった。
さて、「トシ」のことである。
トシという石田村百姓喜六の末弟歳三の人生が大きく変わったのは、安政四年の初夏、八十八夜がすぎたばかりの蝮の出る季節だった。
例年になく暑かった。
この夕、歳三は、村を出るとまっすぐに甲州街道に入り、武蔵むさし府中ふちゅうへの二里半の道を急いでいた。
浴衣ゆかたすそを思いきりからげている。
背が高い、肩はばが広く、腰がしなやかで、しかも腰を沈めるように歩く。眼のある者から見れば、よほど剣の修業をつんだ者の歩き方だった。
顔は紺無地こんむじ幅広はばひろ手拭てぬぐいでつつみ、ほおかぶりのはしをいきに胸まで垂れている。
洒落者しゃれものであった。
手拭一本でも自分なりに工夫して、しかもそれが妙に似合う男だった。
洒落者といえば、まげ・・が異風であった。百姓のせがれらしく素小鬢すこびんという形にすべきところだが、村でもこの男だけは自分で工夫した妙なまげを結っていた。それが大それたことに、武家まげ・・に似せてある。
この変りまげ・・・・・については、
分際ぶんざい(階級)を心得ろ」
と、名主の佐藤彦五郎からしかられたことがあったが、歳三は眼だけを伏せ、口もとで笑っていた。
「なあに、いずれは武士になるのさ」
といった。
その後もまげ・・をあらためなかったが、ただ紺手拭で頬かぶりをするようになった。だから村では、
「トシの目こぼしまげ・・
と悪口をいった。歳三の家と佐藤家とは親戚しんせきなのである。親戚だから、名主もこの異風を目こぼしする。そういう意味である。
しかし頬かぶりよりも、頬かぶりの下に光っている眼がこの男の特徴だった。大きく二重ふたえの切れながの眼で、女たちから、「涼しい」とさわがれた。
しかし村の男どもからは、
「トシのやつの眼は、なにを仕出かすかわからねえ眼だ」
といわれていた。
まったく、この男は何をしでかすかわからなかった。
2023/06/26
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