~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
女の夜市 Part-04
八王子の真宗寺院に入り込めたのは、薬売りという便宜があったからである。
寺の名を専修坊せんじゅぼうといった。
院主いんじゅは歳三が気に入り、
「寺の納屋なやにでもとまって数日近在に売り歩くがいい」
と言ってくれた。娘の姿は見なかったが、昼の間に寺の建物、庭の様子をくわしく調べておき、娘の居間が、この寺で客殿と呼ばれる小さな数寄屋すきやづくりの一室であることも知った。
翌日、はじめて娘の姿を見た。娘は、魚にえさを与えるつもりか、庭の池のふちに腰をおろして朝のをあびていたが、通りかかった歳三に気づいて顔をあげた。
不審な顔で、まゆを寄せた。
むりおもなかった。
紺手拭で頬かぶりをし、絹のしまの帯をしめているあたりはどう見ても名主の惣領息子の様子だが、それが威勢よくしりからげをしている。しかも股引ももひきをはき薬箱をかついでいるところだけを見ればどういやら行商人としか思われない。ところがそうとも思われないのは、この若者が、剣術道具をかついでいる点であった。
こんな、ちゅぐはぐな男を見たことがない。それは不思議と、この眼の涼しい男に似合っているのである。
(どなたかしら)
娘は、まじまじと見た。
歳三の見るところ、娘はさして美しくはなかったが、小柄こがらでおとなしそうなところが彼の好みに合う、と思った。
が、一礼もしなかった。
分際の高い女は好きだといっても、この男は女に頭を下げて愛嬌あいきょうをふりまくのは好まなかった。
ただ、二、三歩近づいて、
「いずれ」
と、だけ言った。
いずれ何をするのか。
娘がこうと眼をあげたときは、歳三は背を見せて山門の方に去って行った。
その夜、こく、歳三は娘の部屋の雨戸にゆばりを流して、音もなく開けた。武州多摩の村々の若者は、娘をよばう・・・ときにこの方法をつかう。
女が、二人寝ていた。
ひとりは娘の乳母で、歳三がまくらもとで寝息をうかがうと、正体もない。
次に娘の寝息をいだ。低く小さくまろやかで、これも正体がなかった。
歳三は、ふとんの裾にまわった。ふとんをそっとはぐると、娘の半身が出た。
両足の親指を、歳三はつまんだ。つまにあげた。両脚を親指だけでつまみあげるのはひどく重いものだが、娘の眼をさまさせないようにするためには、それしか法のないものだということを歳三は知っていた。
やがて、娘の両脚は裾を割って無心に開いた。死体のように知覚がない。
娘が目をさましたときは、すでに異変がおこってしまったあとだった。
ところが歳三にとって意外だったのは娘が騒がないことだった。ただひたすらに体を固くしているほかは、吐息さえもこらえ、声もたてない。
── いずれ。
と歳三が言った意味を、娘はすでに知っていたのだろう。むしろ、この見映みばえのいい旅の若者が忍んで来ることを、ひそかに期待していたのかも知れなかった。若者が娘をよばう・・・ことは、このさとではめずらしい事件ではない。
娘の意外な落着きを見て、
(これがおひいさまか)
と失望したのは、歳三の方だった。その翌日、寺の裏手にひろがっている桑畑にうずもれ、野良着を着て桑つみをしているのを見て歳三はさらに失望した。
(ちがう。──)
と思ったのは、彼が想像していた娘ではなかったのだ野良着を着て桑臭くなっている娘なら彼の村にも居る。わざわざ八王子くんだりまで来ることはなかったのである。この男は、その夕、八王子を発ったきりその後ついにこの専修坊に立ち寄らなかった。
少し異常だが、この挿話そうわは、それほど彼が分際のたかい女へのあこがれが強いことを証拠立てている。
分際が貴い、といっても、武州三多摩の地は、幕府領、寺社領ばかりの地で、武家が居なかった。村には馬糞まぐそくさい百姓娘ばかりいる。やむなく、歳三は、数年前に府中の六社明神の鈴振り巫女みこ小桜こざくらを手なずけて、ときどき彼女の住む社家しゃけのお長屋へ忍んでいた。
今夜の祭礼には小桜も巫女舞みこまいに出るためにおそらく会えまいと思ったが、神事の果てる払暁ふつぎょうには、お長屋に忍んでみるつもりでいた。
そのあいだに、女を物色する。目ぼしい女が居れば、この祭礼の風俗として灯の明るい内に当たりをつけておき、闇になるとともに寝るのである。
2023/06/27
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