~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
女の夜市 Part-05
が、おもわしい女は居なかった。
(江戸から来た武家娘がいい)
と、歳三は軒行燈のきあんどんの下を歩き、境内の林の中を歩きまわった。
(居ねえか)
もう一刻にじかんも、物色している。が、さすがにこんな猥雑わいざつな祭礼に江戸の旗本の子女が来るはずがなかった。
もっとも参詣人さんけいにんこそ猥雑だが、当の六社明神(大国魂おおくにたま神社)は古来武州の総社で、祭礼の格式もきわだって高く、江戸の諸社の神職などは、この祭礼の下役人になって働かされる。それおど社格が高い。
(仕様がねえな)
歳三は、帰ろうかと思った。もっとも物色するうちに何度か、小百姓の女房風の女からささやかれたが、見向きもしない。
そのうち、社殿の森の辺りで祭礼役人の矢声やごえが聞こえ、御輿みこし渡御とぎょをつげる子ノ刻の太鼓が響き渡ったかと思うと、万燈まんどうが一せいに消え、あたりは闇になった。
浄闇である。
ただ星だけが見え、数万の群衆は息をつめて、男神おがみの御輿が女神めがみのもとに通うのを待つ。男女の媾合こうごうはこの間に行われるのである。そのことも、六社の神をにぎわす神事であると参詣人たちは信じていた。
だから、男女は影だけを重ね、声ひとつ立てない。神威を汚すことを怖れた。立ったまま犯される生娘きむすめもいたし、群衆の足もとに押し倒される人妻も居た。しかしどの女も歯をくいしばって声もらさない。
歳三のこの夜の幸運は、万燈が消えたと同じに、彼のそばに女が居た。
なぜその女が、歳三のそばまで寄っていたかわからない。
場所は、群衆のひしめいている山道ではなく、境内の森の中であった。もともと暗かったから灯のあるときにも女の影に気づかなかったし、女の方もそうだったろう。抱き寄せてみてから、女が、ひどく手ざわりのやわらかな絹を着ていることを知って歳三は驚いた。
(何者だろう)
手さぐりで衣裳いしょうを探ると、四枚の比翼ひよくがさねに替裾かわりずそといったもので、この近郷では名主の子女でも用いない。それににおい袋を懐中に秘めているらしく、歳三などがかつせ嗅いだことのない芳香であった。
「そなた、何者だ」
ついに禁を破って、囁いた。
が、女は、これが神事であることを信じているのか、だまってかぶりを振った。
「いってくれ」
「申せませぬ」
明るい声であった。それに、つよい武州の田舎言葉でなく、語尾がやわらかであった。
「そなた、かまわぬか」
「かまいませぬ」
歳三は、草の上に女を押し倒し、はじめて女を知った時の眩惑めくるむような思いで、女を抱いた。この女を抱いたことがやがて歳三にとって自分の新しい運命まで抱いてしまったことになろうとは、むろんこの時気づかなかった。
(わからぬ)
女の体は、すでに男を知っていた。そのくせ、衣裳のぐあいは、娘なのである。
歳三は、抱きしめながら女の帯の間からにしきの袋に入った懐剣をすばやく抜き取った。これさえあれば、あとで身分が知れようと思ったのだ。
女はそれに気づかずに、やがて草の上で着くずれをなおし、闇の中に消えた。
神事がおわり、夜が明け始めたころ歳三は、巫女屋敷の中の小桜の長屋に忍んでいた
「これだ」
と、例の懐剣を見せた。
刀身は海藻肌ひじきはだの地肌の立った見事なもので、銘は則重のりしげとある。越中えっちゅう則重であるとすれば、世にいくつとないものだ。
しかし小桜は、刀身などに見向きもせず、錦の袋をとりあげて行燈にすかしてから、
「あんた、このひとと?」
とおどろいてみせた。
「たしかに、まぐあ・・・ったの」
「そうだ。まだおれのからだに、あの匂い袋のが残っている」
「この紋をご存知?」
と、小桜は、赤地の錦に金糸で縫い取られた五葉菊ごようぎくの紋をつまんでみせた。
「知らねえ」
「この府中の宮司猿渡家さるわたりけの裏紋よ。あんた、とんでもないことをした。この懐剣の袋には、あたしは見覚えがある。当代從四位下じゅしいのげ猿渡佐渡守さまの御妹君で、お佐絵さえさまのものよ」
「そうか」
歳三は、袋を取り上げ、食い入るようにその五葉菊の紋を見た。
2023/06/27
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