~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
六車斬り Part-01
なるほど、この男の恋はねこに似ている。
その後、歳三は、人知れず、府中の六社明神の神官猿渡佐渡守屋敷に、忍び込んでは、蚊帳かやの中でひとりている佐絵とれた。
たれも知らない。知られることを極度におそれた。その点、歳三は猫に似ている。
が、さらに風変りなのは、佐絵に対しても、何村のたれ、とも明かさない。猫以上の秘密主義でああった。
ただ、はじめて忍んで来た夜、佐絵をぞんぶんに抱いたあと、
「これから、とし、と呼んでくれ」
とだけい残して帰った。それがひどくはずかしそうで、女の寝間ねまをもとめて猿渡屋敷に夜陰忍込んで来るほどの豪胆さとは、およそ別人のような感じを佐絵はうけた。
(妙な男だ)
かと思うと、ひどくもの優しいのである。
最初この男が蚊帳の中に忍び込んで来た時など、起きあがろうとした佐絵の口をいきなり掌でふさぎ、
「先夜、祭礼の時の男だ。あの夜は、ありがとう。あなたの忘れ物を返しに来た」
と耳もとでゆっくりささやき、例の赤地錦あかじにしきに入った懐剣をわざわざさやから抜きはなって佐絵の手ににぎらせ、
「いやなら、この短刀さすがで刺していただく」
と言った。
手馴てなれている。
佐絵に恐怖を与えるを与えない。
「あなたはどこのお人ですか」
佐絵は、何度も聞いた。
「もし嬰児ややが出来れば、父親の名も知れぬことになるではありませぬか」
しかし歳三は、いつも黙ったきりであった。
そのくせ、この男のほうは、佐絵についての知識は十分に持っている様子だった。
つぎに忍んで来た夜、
「ちかく、京にのぼって堂上家どうじょうけに仕えられるそうですな」
と聞いた。
「まあ、どこから!」
そういう消息は、猿渡家の身内しか知らないことだからである。
「だれから聞きましたか」
「・・・・」
この男のいう通り、秋になれば、さる事情があって、京の九条家に仕えることになっている。
京へのぼることは佐絵自身は心がすすまなかったが、幕閣のある要人が、ぜひ頼む、と佐絵の前で手をついたために、ついその気になった。朝廷の動きを探索するためである。
むろん歳三はそこまでは知らなかった。
「お気の毒ですな。御亭主どのさえ生きておれば、三河以来の旗本松平伊織いおりどのの御簾中ごれんちゅうであられるお前様だ。京などへのぼることはない」
「わたくしのこと、よくご存じですね」
「そんなことは、この辺りの百姓の作男あらしこでも知っている」
佐絵は、十七の時、本所ほんじょに屋敷を持つ小普請組こぶしんぐみ八百こく松平伊織のもとに嫁いだが、ほどなく夫に死に分かれ、実家に帰った。
実家の猿渡家は、鎌倉幕府よりも古い昔に京から来て関東に土着したという国中きっての名家で、それに武家ではなく神職だから、江戸の旗本と婚姻縁組するかと思えば、京の諸大夫家しょだいぶけとも嫁や婿むこのやりとりをする。
こんどの九条家勤仕ごんしの話も、京のそういう血縁筋から出たものである。
三度目に歳三が忍んで来た時、
「佐絵は、秋になれば当家を出て京にのぼります」
と教えてやった。
「秋のいつです」
「九月」
「もう、いくばくもないな」
「歳どのも、京へおのぼりになれば?」
「京にか」
「ええ」
歳三は少年のように遠い眼をして、
「わしの一生で、京に用のあるようなことがあるだろうか」
「男ですもの」
「とは?」
「男の将来さきはわからぬものでございます」
と、佐絵は何気なく言った。べつぬ数年後、新選組副長になるこの男の運命を読んだわけではない。
ところが、歳三の運命は、この佐絵との縁がもとでひどく変転することになった。
人を殺したのである。
2023/06/27
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