~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
六車斬り Part-02
そのころ、六社明神社の社家の一軒である瀬木掃部かもんの屋敷に、甲源一刀流の剣客で、六車宗伯ろくしゃそうはくという三十がらみの男が食客として住みついていた。
歳三も、この男は見知っている。
ずんぐりした猪首いくびで、まげは総髪にむすび、腕は、江戸内府をのぞけば、武州随一という評判があった。
六車宗伯は社家屋敷の道場を借りて、武州一円の百姓門人をとりたてている。
他国では考えられないことだが、この武州では、百姓町人までが、あらそって武芸をまなぶ。
いったいに武俠ぶきょうの風土と言っていいが、いま一つには武州は天領てんりょう(幕府領)の地で、大名の領国とはちがい、農民に対する統制がゆるやかだった。
自然、百姓のくせに武士をまねる者が多く、どの村にも武芸自慢の若者が居り、隣村との水争いなどにはそれらの者が大いにけまわって働いた。その勇猛果敢ぶりは、三百年の泰平に馴れた江戸の武士のおよぶところではない。
武州一円は、そういった連中に教える田舎剣法の流儀があった。
一つは、武州わらびを本拠とする柳剛流りゅうごうりゅうで、これは相手のすね・・ばかりをねらって撃ち込む喧嘩剣法である。江戸の剣客は、柳剛流ときけばすね・・ばらいをきらって試合をしない。
いま一つは、遠州浪人近藤内蔵助くらのうけを流祖とする天然理心流で、気をもって対手の気をうばい、すかさずわざをほどこすのが特徴で、江戸の巧緻こうちな剣法からみれば野暮ったいものだが、いざ実戦になると、ひどく強かった。宗家の近藤家は内蔵助の没後すでに三代をかさね、いずれも百姓あがりの剣客があとを継いでいる。三代目が近藤周助(周斎)、すでに七十の老人で、跡目には、武州上石原かみいしわら(現在調布市)の農家の三男勝太かつたという者を改名させて養子にもらい、三多摩一帯の出稽古でげいこをさせている。これが、歳三より一つ年長の近藤勇である。
最後に、甲源一刀流がある。
武州秩父ちちぶ地方に古くからあった流派だが、近年、高麗郡こまのこおり梅原村から比留間ひるま与八(天保十一年没)という達人が出るに及んで、にわかに隆盛となった。
比留間の死後、その子の半造が武州八王子に本道場をおき、師範代の六車宗伯を府中に常駐させ、おもに甲州街道沿いの農村に入り込んで、近藤の天然裡心流と門人の数を争っている。
或る夜、歳三が、暁方あけがたちかくまで佐絵の寝所にいて、さて引き上げるべく猿渡屋敷の土塀どべいを乗り越えた時、
「賊」
という声が、足もとの草むらでおこった。
「───」
身をかがめると、眼の前に黒い人影が立っている。
(見られたな ──)
と思った時、全身に冷汗が流れた。
相手はゆっくりと近づいて来て、刀のツカに手をかけた。
「逃げると、斬る」
「・・・・」
「名を言え」
歳三は無言である。
「ちかごろ、この猿渡佐渡守様お屋敷に夜陰忍び入る者があると聞いて、それとなく境内の見廻みまわりをしていたが、果たして風説の通りであった。神妙にせよ」
(なにを云いやがる)
三蔵は、ツツと後じさりしながら、すばやく手を背にまわし、肩に担いだ菰包こもづつみを解き、中身の太刀を取り出した。
夜道を歩く時には、かならずこれを肩からかついでいる。
こしらえこそ粗末だが、中身は、家に伝わる武州鍛冶かじ無銘の業物わざもので、姉婿の日野宿ひのじゅく名主佐藤彦五郎の鑑定めききでは、安重やすしげではないか、ということだった。
ぎらり、と引き抜くと、刀身二尺四寸、身のうちの凍るようなにおいが立つ。
「ほう」
相手は、間合まあいいを詰めながら、
「まさか、そのほう本気ではあるまいな。念のために申しておくが、わしは当神域に厄介やっかいになっている六車宗伯である」
六車宗伯といえば、聞いただけで武州一円では名である。
「刃物をすてよ」
と六車が言った時、歳三は折あしく雲間から十六日の月が出た。
月が、歳三の半顔を照らした。
「見た顔だな」
六車宗伯は、前進しながら、
「日野宿の佐藤彦五郎には、天然裡心流の道場があろう」
「・・・・」
「過日、わしは近藤に試合を申し入れて、ことわられた。そのとき、近藤のそばに居たのは、そんほうだったな」
(さとられたか)
歳三は決心がついた。
2023/06/28
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