~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
六車斬り Part-03
六車が、この男逃げる、とみていた歳三の足が、意外にもピタリととまった。
「六車さん、その歳三さ」
はっ、と六車も、前進をとめた。
歳三が言った。
「隠し姓は土方という。覚えておいてもらおう。天然裡心流の目録で、師匠筋の近藤とは義兄弟の仲だ。だから近藤になりかわって他流試合の申入れを、いま受けてやる」
「若僧、よせ」
六車は、落着いている。
「たかが夜這よばいいだ。逃してやるから、二度と猿渡屋敷に近寄るな。佐渡守さまがうすうすお佐絵御料人のご様子に気づかれ、かねてわしに探索を頼まれていた。捕らえて入牢じゅろうさせる、ということであったが、今夜はとくに免じてやる」
「抜け」
といっても歳三自身、まだ構えもせず、刀を右手にだらりと垂れさげている。肉厚にくあつな、特徴のある大きな瞼の下に、冷たい眼が光っていた。情事を知った以上、この男は生かしておけない。
「歳三、念のためこう」
六車宗伯は、微笑してみせた。
「まさか、わしを武州随一の名人とも知らずにわめいているのではあるまいな」
「知っている」
「そうか」
六車は腰を沈め、草をぐようにして長剣をゆっくりと抜いた。おどすつもりである。そのまま剣尖けんさきを中段にとめ、一歩、踏み出した。
それにつれて歳三は、右足をひき、放胆に胴をあけっぴろげたままの左諸手ひだりもろて上段に剣尖を舞いあげた。
一瞬、やいばが鳴った。
無謀にも、歳三が撃ち込んだのだ。六車はからくも頭上で受けたが、
「こいつ、馬鹿か」
と思った。呼吸もはからないし、はからせようともしない。
びゅつ
と、つぎは右横面にきた。六車はつばもとで受けたが、手首がしびれた。
さらに左横面。
やっと防いだ。
いつの間にか斬りたてられて、どんどん退さがっている。
(こんなはずはない)
立ちなおろうにも、歳三の撃ち込みが激しくて余裕を与えないのだ。
わざの差ではない。
度胸の差であった。
歳三は、薬の行商をしながらよほど雑多な流儀を学んだらしく、面を撃つとみせて太刀をそのまま地へ吸い込ませた六車のすねをはらった。柳剛流だけにある手で、薙刀なぎなたを加味したものだ。
「あっ」
とびあがって避けた。
かわすと、待っていたようにその剣が腹を突いてくる。
「待て」
六車は斬りたてられながら、
「ここは神域だ」
「・・・・」
「あらためて他日」
あらためて他日、と半ばまで言った時、歳三が片手なぐりに撃ち込んだ剣が、六車宗伯のこめかみ・・・・の骨を割った。
血が、六車の眼をつぶした。
「あらためて他日」
六車は背を見せた。
逃げようともがいた。が、歳三の剣が後頭部に、ぐわっと斬り込んだ。
浅い。
六車の眼はつぶれている。意識もなくなってしまったのだろう。どういうつもりか、ふたたび歳三のほうに向き合った。刀を垂れ、立っているだけがやっと、という姿であった。
(これが、武州壱円の達人と恐れられている六車宗伯か)
歳三は、ゆっくり剣をあげた。
(うむっ)
腰を沈めた。
歳三の剣が斜めに流れ、宗伯の首は虚空にはねあがり、胴が草の中にうずくまった。殺人とは、こんなに容易なものなのかと思った。
2023/06/28
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