~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
六車斬り Part-05
秋になった。
歳三はあの一件後、はじめて甲州街道を西へのぼって、府中に入った。
この年は雨が少なく、武州の空はかぎりなく青い。
歳三は、明伸の境内を横切って、猿渡佐渡守屋敷の裏塀へ出た。
(ここだな)
編笠あみがさをとって、秋草の上に捨てた。
右手に溝川どぶがわが流れ、うるしの若木が一本、紅葉しかけている。
この場所で、あの明月の夜、六車宗伯を斬った。たしかに斬ったが、ほとんど夢中で、なんの覚えもない。
あの時と同じように、歳三はスラリと刀を抜き、左上段に構えた。
眼をつぶった。記憶を再現するためであった。やがて眼をひらき、眼をこらしてそこに太刀を構えている宗伯の姿をありありと再現しようとした。
(なぜ、一太刀で斬れなかったか)
ここ数ヶ月、そればかりを工夫した。道場では、近藤と立ち合う時も、長倉、藤堂などと立ち合う時も、相手が、あのときの六車宗伯であるとして、撃ち込んだ。
(わからぬ)
いま、そこに六車宗伯が居る。
歳三は、踏み込んだ。
六車がかわす。
(浅い)
何度やっても、不満であった。小技こわざすぎた。ついに歳三は上段のまま動かなくなり、気合を充実し、小半刻こはんときも草の上に立ちつくした。風が歳三をなぶっては吹きすぎて行く。
ついに、見た。
六車宗伯が気倒けおれ、重大なすき・・ができた瞬間を思い出した。
歳三は、どっと踏み込み、振りかぶって右袈裟けさに大きく撃ちおろした。

と漆の幹が鳴って、空を掃きながらたおれた。歳三の映像の中の六車宗伯も、たしかに真二つになったとみたとき、背後で、声がした。
「何をなさっています」
振り向くと、佐絵である。それだけ云うのがやっと、というほど真黒い眼が怯えていた。
「いや、いたずらだ」
刀をさやにおさめ、こそこそと立ち去ろうとした。そのにわかにしおれた姿が最初の夜、
──歳、と呼んでくれ。
と云って立ち去った、あのひどく気恥ずかしげな歳三の印象を佐絵に思い出させた。佐絵はほっとして、
「歳どの」
と、微笑わらってみせた。
「あす、京へ発ちます」
2023/06/29
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