~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
七里研之介 Part-01
江戸内藤新宿から六里。
いまの甲州街道ぞいの調布ちょうふ市は、当時は中心地を布田ふだといい、近在の国領おくりょう、木島、下石原、上石原をあわせて、
布田宿じゅく
といった。
いまもさして様子はかわらないが、年中、まぐさ・・・くさい街道風が舞いたっている宿場町である。
当時、街道に板葺き屋根を並べる旅籠はたごには、「一軒に二、三人は、おじゃれ・・・・と呼ぶ遊女を置いていた。飯盛女めしもりおんなである。ところがこの宿しゅくではふしぎと色黒女ばかりが集まったから、
「布田の黒よし」
と呼ばれ、甲州街道を上下する小商人こあきんどなどが、この宿で泊まるのを楽しみにしていた。
その日の午後。
といえば、歳三が猿渡家の息女佐絵の京へ上るのを見送ってからすでに半年にはなる。── なだ日も高いというのに旅籠上州屋理兵衛方にずいっと入って来たのは、この男であった。
「おれだ」
と、刀をさやぐるみ抜いた。江戸の道場から来た。
「あっ、先生」
亭主の理兵衛自身が飛び出して来て、二階の部屋に案内した。
その日の土方歳三は、ひだり三巴みつどもえの家紋を染めぬいた黒のぶっさき羽織に羅紗地ラシャじの袴の裾を染め革で縁取りした贅沢なこしらえで、大小はすこし粗末で樫地かしじ塗り、まげは総髪にして、あの頃から見れば見違えるような立派な武士の風である。
歳三は、月に一度は、甲州街道をこのあたりまでやって来る。つまり、地方じかたへの出教授できょうじゅで道場を維持しているのが、近藤の天然地震流の細々とした経営法だった。
近藤道場のある江戸の小日向柳町の坂のあたりは、わりあい小旗本の屋敷が多いが、かといって歴々の子弟は、こんな無名の小流儀を習わない。やって来る門人といえば物好きな町人、中間ちゅうげんか、伝通院でんずういんの寺小姓ぐらいのものだった。やはり道場のかせぎは、多摩地方への出稽古でげいこである。
むろん近藤も行く。そのほか、土方歳三、沖田総司おきたそうじ、井上源三郎など目録以上の者が、月の内何日かは交替で、甲州街道をてくてく歩いて、多摩方面へ出張するのだ。
布田では、この上州屋が彼らの定宿じょうやどになっていた。一泊して女と遊ぶのが楽しみだが、もっとも歳三だけは、
黒よし
などには興味はなかった。ただ、酒をつがせるだけで、手も握らない。
「ましはあとだ」
と言った。
「酒を一本」
ただし酒好きではないから、杯をなめるだけで、飲むというほどにはいたらない。
「それに、おんな
と付け加えた。亭主の理兵衛が驚き、
「そういう風の吹きまわしでございます」
と言ったが、歳三は取りあわず、
「お咲という飯盛女おじゃれがいたな」
「へい」
亭主はけ下りて、そのまま裏木戸へ走り出た。すぐ田圃たんぼになっている。
草むらに女が二、三人、しりをもたげて騒いでいた。夜になるとこういう女でもあかじみた絹の小袖こそでは着るが、真昼間は寝ているか、それとも紺々こんこんした野良着のらぎに着替えて、田のふちの水溜みずたまりをきさがしてどじょうをるのである。
もちろん、女たちはなべにして食うのだ。これさえ食っていれば、夜勤めにも体が堪えるし、無病で年季の明けるまで勤まるという。そのせいで、この甲州街道の宿場々々の女郎はどの女もどじょう・・・・臭かった。
「お咲、手を洗え」
亭主は、牛をしかるような声で言った。女は、尻の向うで顔をこちらに向け、
「おきゃく?」
と、まゆをひそめた。昼っぱらの客など、よほどの好色にきまっている。
すぐ衣裳いしょう着更きがえ、申しわけに首筋だけに白粉おしろいを塗りつけて歳三の前に出た時は、それから四半刻しはんどきっていた。おお咲は十八、九のくちびるの薄い女で、上州なまりがぬけない。
歳三は南の空の見える部屋で独り酒を飲んでいたが、入って来たお先を見るなり、
「お前だな」
とぎょろりろ眼を向けた。
「なんです」
「一昨夜、井上源三郎さんの敵娼あいかただったてのは」
「ええ」
井上は、近藤道場では一番の年がしらで、剣は器用ではないが、その人柄ひとがららしく着実な撃ち込みで一種の風格があった。近藤道場では先代からの内弟子うちでしで、もとはやはり南多摩の百姓の子である。
土方がお先を呼んだのは、一昨夜、この妓が井上と寝たとき、寝物語で容易ならぬことを言ったというのである。
「そいつを、ここで詳しく話してみろ」
いやだ」
お先は、眼をえた。
「悪かった。おれァ、口のきき方がよくねえそうだ。い改めよう。話してもr
2023/07/02
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