~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
七里研之介 Part-02
話、というのは、数日前に、三人で繰り込んで来た浪人剣客のひとりが、お先を買い、寝床の中で、上州屋 こ こにとまる近藤道場の連中のことをしつこくいた、ということを、一昨夜、お先が井上源三郎に寝物語で話したのである。
井上が江戸道場に戻ってから、そのことを歳三に報告し、
── 何だかよくわからないが、こんどあんたが行くと妙なやつが悪戯いたずらをするかも知れない。多摩ではあまり夜道は歩かない方がいい。
と、注意した。
(六車宗伯に縁のあるやつだな)
と歳三は、直感した。もっとも、六車をった一件は、道場のたれにも言っていない。他人の口のこわさを歳三は知っている。言えばかならずれるものだ。
── とにかく、
と井上源三郎は言った。
── 上州屋のお先に聞いてみろ。
「ごんなことを訊いた」
と歳三はお先に言った。
「顔だよ」
お先はしゃくをしながら、
「顔さ。先生たちご一統さまのご人相。なんだか、去年の空、府中の六社明神の境内裏で、漆の木を切った人を探してるんだ、てことだったけど、その漆、ご神木だったのかしら」
「漆の神木はなかろう」
六車の一件だ、と思った。歳三が、あの事件後、現場でもう一度、記憶をたどて太刀筋を検討していたとき、土地の百姓かたれかに目撃されたのちがいない。」
そのうわさが、甲州街道沿いの田圃をまわって、いまごろ六車宗伯の同門の者の耳に入ったものとみていい。
「その男、どういう人相だった。びんのあたりが、ちぢれあがってはいなかったか」
「いた」
と、お先はうなずいた。
めんずれのあととみていい。とすれば相当な使い手に相違なかった。
「ちょっといい男だった。月代さかやきがのびていて、右眼の下にあざがある。背丈は、五尺七、八寸」
「なまりは?」
「さあ、江戸にも居た様子だよ。しかし口の重そうな所をみると、上州生まれかも知れない」
歳三は、翌日、布田宿を出た。
上石原の近藤の実家で近在の若者を教えた後、翌日は連雀れんじゃく村に移った。
この村には、道場はない。
名主屋敷の味噌蔵みそぐらを片付けて稽古するのがだが、歳三が到着すると、すでに五、六人の若者が待っていて、
「きのう、村に妙な浪人が来ました。先生はいつお稽古にお見えになる、というのです」
と言った。歳三は、ツト表情を消して、
「おれに、名ざしでか」
「そうです」
すでに相手は、名までつきとめている。
「用向きは?」
「一手、お教えねがいたい、ということでした。右眼の下にあざのある・・・・」
「知らんな」
歳三は、興味なげに着物を脱ぎ、総革の胴のひもを結びながら、ふと思い出したように、
「どこの男だ」
と言った。
「八王子です」
と断言したのは、この村で作る馬のわらじ・・・を荷にして、月に十日は八王子の宿場へ売りに行く辰吉という若者だった。八王子では、二、三度往来で見た顔だという。
2023/07/03
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